19.邪神様は祓われてしまう!
ルミナ都市のギルド裏手にある広々とした訓練場。
乾いた土の地面に、セシリアの体が激しい音を立てて転がった。
「痛っ……!」
セシリアは顔をしかめ、木剣を取り落とした手を抑え込む。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、息をするだけで胸の奥が熱く焼ける。
「そこまでだ」
ハルトが手にした木剣を下ろし、余裕の笑みを浮かべて近づいてきた。
赤い髪が風に揺れ、汗一つかいていない。
「立ちなさい、セシリア。君の反応速度は少しずつ上がっている。だが、足さばきが甘い。もう一度、構えて」
ハルトの厳しい声が飛ぶ。
勇者による直接の特訓が始まってから、すでに三日が経過していた。
最初の基礎体力作りはまだ耐えられた。
しかし、実戦形式の組み手が始まってからは、地獄の連続だった。
セシリアがどんなに必死に木剣を振っても、ハルトはそれを軽々と弾き、文字通り数秒でセシリアを地面に叩き伏せる。
その実力差は歴然としていた。
「はぁっ、はぁっ……」
セシリアは震える足で立ち上がろうとするが、膝から崩れ落ちてしまう。
「痛い……もう、だめです……これ以上は、動けません……」
セシリアは土まみれの手で地面を叩き、力なく首を振った。
ハルトは少し困った顔をして、顎に手を当てる。
「おかしいな。あれだけ追い込んでも、裏の人格が全く顔を出さない。命の危険を感じるレベルまで圧力をかけないと、引き出せないのかな」
(そんなことしたら、私が本当に死んじゃいます!)
セシリアは涙目でハルトを見上げる。
限界を迎えたセシリアの精神が、無意識のうちに意識の奥底へ救いを求めた。
『邪、邪神様……どうか、助けてください……このままだと、全身の骨が折れてしまいます……』
セシリアは心の中で必死に祈る。
数秒の沈黙の後。
(あれぇ〜?いいの?)
星乃のからかうような、しかしどこか嬉しそうな声が脳内に響いた。
(つまり、あんたの体を借りて、あの生意気な勇者様をボコボコにしてもいいってことよね?そういうことなら、喜んで交代してあげるわよ)
星乃の声には、明らかな好戦性と危険な響きが混じっていた。
その言葉を聞いた瞬間、セシリアの心に先日平原で見た光景がフラッシュバックする。
圧倒的な力を持つ魔人を、ただの鉄の槍で一蹴し、傲慢に見下していたあの恐ろしい姿。
もし星乃がハルトと戦えば、単なる特訓では済まない。
木剣を持った星乃が、本当にハルトの頭を叩き割ってしまうかもしれない。
『い、いや!違います!そういう意味じゃありません!』
セシリアは心の中で激しく首を振る。
『ごめんなさい!やっぱり、もう少し自分で頑張ってみます!』
(ふん、つまんないの)
星乃の不満げな舌打ちが聞こえ、再び意識の奥へと引っ込んでいった。
セシリアは冷や汗を拭い、どうにか立ち上がって深呼吸をした。
「少し休憩しようか。君も無理をしすぎると体が壊れる」
ハルトが木剣を壁のラックに戻し、水の入った水筒をセシリアへ差し出す。
「あ、ありがとうございます……ハルト様」
セシリアはそれを受け取り、喉を潤す。
その様子を、少し離れたベンチで見ていたリリアが立ち上がり、ゆっくりと近づいてきた。
「お疲れ様です、ハルト様。ですが、本当にセシリアの裏の人格は出てきませんね。何か特別な条件があるのでしょうか」
リリアは真剣な顔でセシリアを見つめる。
「わからない。だが、オレの極級の力で圧力をかけても無反応ということは、条件はかなり厳しいのかもしれないな」
ハルトが肩をすくめる。
その言葉を聞いたセシリアは、ふと首を傾げた。
「あの……そういえば、ずっと気になっていたのですが」
「ん?なんだい?」
「ハルト様やリリアさんがよく口にする『極級』って、どういう意味なのでしょうか?冒険者のすごい称号か何かですか?」
セシリアが純粋な疑問を口にした瞬間。
訓練場の空気が、ピタリと凍りついた。
ハルトは目を丸くし、リリアは持っていた杖を落としそうになる。
近くで特訓を見ていたガランやレオンも、一斉にセシリアの方へ振り向いた。
「はー!?」
ハルトとレオンが同時に大声を上げる。
「君……それ、知らないのかい!?」
ハルトが信じられないという顔で詰め寄る。
「お前、本当に言ってんのか!?」
ガランも目をむいている。
セシリアは皆の反応にたじろぎ、一歩後ずさった。
「えっ……わ、私、何かおかしなことを言いましたか?知っているべきことだったのでしょうか……?」
「まったくもう……!」
リリアが頭を抱え、大きなため息をついた。
「一体貴女、どういうつもりで冒険者になろうとしたんですか!?この世界の基本中の基本ですよ!」
「えっと……スライムを倒したり、薬草を森で取ったりしてお金を稼ぐお仕事だと……」
セシリアがおずおずと答えると、リリアはさらに深いため息をついた。
「それ以外は知らないってことですね……よく聞いてください。冒険者として生きていくなら、絶対に知っておくべき知識です」
リリアは落ちた杖を拾い上げ、姿勢を正した。
「すべての生き物は、魔力制御によって『強さのランク』を持ちます。そのランクに応じて、社会での扱いが大きく変わるのです。中級以上の人間は魔力を体に取り込めるため、老いないまま長生きできます」
「お、老いない……!?」
セシリアが驚きの声を上げる。
「はい。まず一番下が『下級』。実戦魔法を少し使える程度で、魔法の威力や効果範囲は限定的です。単独で戦況を変える力はありません。貴女の今の肉体はこの下級にも満たない凡人の状態です」
リリアは淡々と説明を続ける。
「次が『中級』。複数の属性魔法や実戦的な魔法を自在に扱えます。一人で複数の敵と戦える戦闘能力を持ちます。私や、そこにいるガラン、レオンも中級です」
ガランが誇らしげに胸を張る。
「その上が『上級』。高度な魔法を使用でき、高威力・高精度の魔法を連続して放てます。個人戦闘能力が非常に高く、都市の領主なみの地位を持ちます」
リリアはそこでハルトを見た。
「そして、さらに上が『極級』です。高位魔法を使用でき、通常の魔法では実現できない規模の魔法を扱えます。単独で多数の強敵や大規模な戦闘集団に対抗できる力。ハルト様は、この極級の槍士なのです。伯爵級以上並みの地位があり、極級以上は長命種並みの寿命を持ちます」
「極級の槍士……」
セシリアは改めてハルトを見る。
目の前で笑っている気さくな青年が、それほど途方もない地位と力を持っていることに戦慄する。
「まだありますよ。その上が『究極』。複数系統の魔法を組み合わせ、広範囲の戦場そのものへ干渉します。公爵並みの地位で、国家戦力として動員されます」
リリアの表情がさらに硬くなる。
「そして『禁忌』。禁忌魔法を使用できる魔王級の存在。国家が討伐に連合規模の戦力を必要とするレベルです」
リリアは少し間を置く。
「最後に、魔法そのものを超越した『超越』と呼ばれる段階が存在します。ですが、これは神話の中だけの話です」
セシリアは情報量の多さに目を回しそうになっていた。
自分が住んでいた田舎の村では、そんな世界の仕組みは誰も教えてくれなかった。
(ハルト様は、そんなにすごいお方だったんですね……)
セシリアがハルトへ尊敬の眼差しを向けていると、ハルトがポンと手を打った。
「あ、そうだ。すっかり忘れていたよ」
ハルトは明るい声でセシリアに向き直る。
「ところで、前に森で言っていた呪い解除の話だね。君の中の邪悪な存在を祓う件」
「えっ」
セシリアの心臓がドクンと跳ねた。
「オレの知り合いで、帝国騎士団に所属している聖騎士の友達をこの都市に呼んできたんだ。光の神の眷属で、強力な浄化魔法の使い手だよ。後3日でルミナ都市に到着するはずだ」
ハルトは自分の手柄を誇るように笑う。
「君の特訓と並行して、その聖騎士に君の体を診てもらおう。極級のオレでもわからない呪いなら、専門家に任せるのが一番だからね」
セシリアの顔から、一気に血の気が引いた。
(あー!しまった!呪い解除の依頼を取り消してもらうの、完全に忘れてた!)
先日平原で星乃に命を救われ、セシリアは彼女への認識を改め始めていた。
強大で恐ろしいが、確実に自分を守ってくれる存在。
今となっては、無理に星乃を消し去る必要はないと考えを変えていたのだ。
しかし、星乃との取引の件をハルトに正直に話すことなどできない。
星乃は悪の神としてハルトを騙し、裏で操るような恐ろしい計画を企てていることになっているのだから。
(どうしよう!このままじゃ、明日本当に聖騎士様が来て、邪神様を祓ってしまう!もし邪神様が怒って暴れたら、この都市が吹き飛ぶかもしれない!)
セシリアは極度のパニックに陥り、土気色の顔で立ち尽くした。
星乃は沈黙した。
(もしかしたら、今ちょうど良いチャンスかもしれない…)




