18.私が?勇者様を倒す!?
平原の砂埃が完全に静まり返った。
遠ざかっていた魔人の気配が完全に消滅したのを確認し、星乃は槍の柄から手を離した。
その瞬間、体の制御権がセシリアへと戻る。
カランッ。
鉄の槍が乾いた地面に落ちる音とともに、セシリアは糸が切れたようにその場へへたり込んだ。
限界を超えた疲労が全身の筋肉を軋ませる。
呼吸は荒く、心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ね上がっている。
「はぁっ、はぁっ……!」
セシリアは震える両手で地面を掴み、ルミナ都市の方向を振り返った。
遠くの視界の先に、リリアたちが向かった街道の安全な気配がある。
ハルトもリリアたちも、無事に逃げ延びたのだ。
その事実が、恐怖で張り詰めていたセシリアの心を少しずつ溶かしていく。
『邪神様……』
セシリアは意識の奥深くに呼びかけた。
『ありがとうございました。あなたが、ハルト様やリリアさんたちを逃がしてくれた。私自身の命も、救ってくれた』
(……あら。あんた、私を光の力で消そうとしてたんじゃなかったの?)
星乃の意地悪な声が響く。
『それは……。でも、あなたが私の声に応えてくれなかったら、全員死んでいました。あなたの正体が何であれ……悪い神様だとしても、私にとっては、命の恩人です。本当に、ありがとうございます』
セシリアの心からの感謝の念が、温かい波となって星乃の精神に流れ込んでくる。
星乃は沈黙した。
(命の恩人、ね)
ゲームのシステムも報酬もないこの現実の異世界で、ただの一プレイヤーである自分が、一つの命を確実に救った。
ハルトやリリアという、本来のシナリオ通りに生きていたNPCたちを、自分の判断と技術で死地から遠ざけたのだ。
星乃の胸の奥で、確かな達成感が広がる。
虚無感と孤独で凍りついていた精神に、小さな熱が灯った。
(……ふん。勘違いしないでよね。私はただ、自分の隠れ蓑が壊されるのが困るだけよ)
星乃はあえて突き放すような口調で返す。
『はい。それでも、感謝します』
セシリアは口元にわずかな笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がった。
重い足を引きずりながら街道を歩くこと数十分。
ルミナ都市の防壁が見えてきた頃、前方から複数の足音と馬車の車輪の音が近づいてきた。
「セシリア!」
先頭で駆け寄ってきたのは、息を切らせたリリアだった。
その後ろには、ギルド長のゼルト、そして馬車の上で上半身に包帯を巻いたハルトの姿がある。
「リリアさん!ハルト様も!」
セシリアは顔を輝かせ、小走りで彼らの元へ向かう。
「無事だったか、セシリア」
ゼルトが厳しい表情をわずかに緩め、セシリアの肩を軽く叩いた。
「報告はリリアから聞いた。魔人に遭遇し、お前の裏の人格が時間稼ぎを引き受けたとな」
「はい……魔人はどこかへ消えました。私、無事です」
セシリアが答えると、馬車の荷台からハルトが身を乗り出した。
高度な治癒魔法とポーションの応急処置を受けた彼は、顔色こそ悪いものの、勇者らしい快活な笑みを浮かべていた。
「セシリア。君に助けられた。本当にありがとう」
ハルトのまっすぐな感謝の言葉に、セシリアは恐縮して顔を赤くする。
「と、とんでもないです!私なんて、何も……」
「何もしていないわけがないだろう。君のあの力がなければ、オレたちはあの平原で全滅していた」
ハルトは真剣な声で遮った。
リリアも深く頷く。
「ええ。貴女のあの『力』は、私の理解を遥かに超えていました。多重防壁を容易く砕いたあの魔法の球体を、ただの鉄の槍で弾き返すなど……」
リリアは言葉を濁すが、その瞳には明らかな畏怖が宿っていた。
炎の神の眷属であるハルトすら超える、上位の存在の気配。
それを前にして、リリアはセシリアへどう接するべきか戸惑っているようだった。
ゼルトが腕を組み、ハルトへ視線を向ける。
「勇者殿。リリアの報告を信じるなら、この小娘の中に眠る力は、都市の防衛どころの騒ぎではないということになるな」
「ああ、間違いない」
ハルトは馬車の縁に手をかけ、ゼルトを見下ろす。
「あの魔人の魔力圧は、完全に極級の上位に位置していた。そして、あの質量を持った攻撃魔法を無力化し、反射する現象。あれはただの身体強化や魔力操作の次元ではない」
ハルトはセシリアをじっと見つめた。
「君の中に眠るもう一つの人格は、間違いなく極級、あるいはそれ以上の領域に到達している。いや、それだけの力がないと説明がつかない」
(そりゃそうよ。ジャストパリィだもの)
星乃は脳内で得意げに呟いたが、表には出さない。
ゼルトは深く息を吐き出した。
「だが、当の本人がその力を制御できていない。危険すぎるな」
「だからこそ、オレが提案したい」
ハルトはゼルトに向かってきっぱりと言い放った。
「セシリアを、帝国騎士団とギルドの共同で、極秘裏に育成する」
「育成、だと?」
ゼルトが眉をひそめる。
「ああ。あの魔人はまた来るかもしれない。その時、彼女の力が完全に引き出せれば、最高の戦力になる。オレたちで彼女を鍛え、あの力を自在に操れるようにするんだ」
ハルトの提案に、セシリアは目を白黒させた。
「わ、私が、鍛えられるんですか?」
「その通りだ。セシリア、君の体はまだ凡人の領域に留まっている。だから裏の人格と完全に同調できないんだ。まずは基礎体力を上げ、力を受け入れる器を作る」
ハルトは自身の包帯を指差す。
「オレの傷が完治するまでの間、このルミナ都市に滞在する。その間、オレが直接、君の相手をしてあげるよ」
「えっ……?」
セシリアの思考が停止した。
「勇者殿が自ら訓練相手になるというのか。それはありがたいが、怪我の具合は大丈夫なのか」
ゼルトが確認する。
「問題ないさ。オレの魔力制御の訓練にもなるしね。それに、あの裏の人格が顔を出した時、それを止められるのはオレくらいしかいないからな」
ハルトは自信満々に笑った。
セシリアは混乱した頭で、その言葉を反芻する。
勇者様が、私の訓練の相手をする。
私が、あの戦いを司る神だと名乗る邪神の力を引き出すために、勇者様と戦う。
「はい?私が?勇者様を?倒すための訓練をするんですか!?」
セシリアの声が、平原を抜ける街道に素っ頓狂に響き渡った。
『ちょ、ちょっと待ってください邪神様!私、そんなこと聞いていません!』
(いいじゃない。勇者をボコボコにできるチャンスなんて、そうそうないわよ。せいぜい特訓に付き合ってあげなさい)
星乃は完全に面白がり、脳内で戦闘意欲を燃え上がらせていた。




