第7話 旅には…甘い出会いも必要ですよね?
黒壁の通りを抜けた先に、その店はあった。
古い蔵を改装したらしい建物で、外壁は黒漆喰。
格子窓の向こうに暖色の灯りが揺れている。
ガラス工房や土産物屋が並ぶ通りから少し外れただけなのに、妙に静かだった。
店先に立てられた木の看板に店の売りを明記している。
ここは外観も含めて写真に収めておいた。
最近はしっかりとした撮影機材を持っている旅行者もいるので気兼ねなく撮影ができる。
店への取材は仕事の中に入っていないので、中での様子を撮るときは自分でとなる。
フリーランスとなって、その部分だけが色々と時間の無駄だと感じてしまう。
「立ちましょうか?」
と澪が紘一の顔を覗き込んだ。
「モデル料は出ないよ」
「え、ケチ」
「まず、この店の取材依頼できていないから、記事として使われる保証はない」
「…それってただ働き?」
「そういうときもあるね…せめて経費は見てほしいけど」
紘一は苦笑を漏らした。
旅行記に店を載せるのは、相手の依頼に基づくことが多い。
店の名前が知られている。
有名な名物料理がある。
などの『引き』があれば取材協力を依頼することもあるが…
その場合のアポは事務方が事前に行い、時間を抑えていたりする。
「じゃあ辞めておく」
「はいはい、だから建物を撮らせて」
志乃はそんなやり取りを後ろから眺めていた。
「私が立ってもいい?」
「え」
「使っても使わなくても、ただ…写真頂戴」
「…いいけど」
紘一は少し顔を上げてから答えた。
志乃の肩にかかる黒髪は癖が少なく、雨上がりの湿気で毛先だけがわずかに跳ねていた。
派手な化粧ではないのが逆に目を引く。
服装からして仕事で来ているのだろう。
ただ、薄く整えられた口元と、伏せがちな目元のせいか、年齢より落ち着いて見える。
すれ違えば記憶に残らないかもしれない。
それほど自然な透明感を持つタイプ。
でも一度言葉を交わせば、なぜか視線を外しにくい。
笑っているのに、その奥に何かを隠しているような女だった。
この店の前に立つにはしっくりとくる。
逆に澪は、その空気を打ち消すようによく笑う。
明るい茶色に染めた髪を肩の上で揺らして笑顔を振りまいている。
初対面の相手にも遠慮なく距離を詰めていけるタイプ。
年下らしい無邪気さを装っているが、視線の動かし方だけ妙に大人びていた。
24歳という年齢より、少しだけ遊び慣れて見える女だった。
この店の前でナビゲーター的に出すのなら昼間が似合うだろう。
「立ってもらってもいいかな?」
「もちろん」
カシャッ。
「私も一緒に写る」と澪もその前に並ぶ。
カシャッ。
この店は琵琶湖と近江牛を売りにしているらしい料理名が並んでいる。
紘一は看板を見上げて苦笑した。
「観光地価格ってやつかな」
志乃は肩をすくめる。
「旅先で値段を気にしたら負けですよ」
「その言い方、旅行慣れてるね」
「出張です」
短く返したあと、それ以上は続けなかった。
店内は天井が高く、梁がむき出しになっていた。
古民家をそのまま残した内装らしく、足元の板張りは歩くたびに小さく軋む。
案内された窓際の席からは、細い路地越しに夕暮れの町並みが見えた。
濡れた石畳に街灯の明かりが滲んでいる。
注文したのは、地元牛の炙りと湖魚の前菜、それに軽めの赤ワインだった。
小さな皿に乗せられた鮒の燻製は思ったより癖がなく、酒によく合う。
焼き上がった近江牛は脂が重いはずなのに、不思議と箸が止まらない。
紘一はグラスを傾けながら窓の外を見る。
「こういうの、取材抜きで来ると違うな」
志乃はナイフを置いて笑った。
「仕事で来ると景色って見えなくなりますよね」
「見るけど、記事に使えるかで切り分けちゃう」
「それ、損してません?」
紘一は返事をしなかった。
代わりにもう一口ワインを飲む。
少し渋みが強い。
でも、それが肉の脂と混ざると妙にちょうどいい。
外では、夕方の観光客が少しずつ減っていた。
ガラス店の明かりが順番に落ちていく。
その様子を眺めながら、紘一は思う。
竹生島に渡るはずだった一日。
予定は狂った。
でもこうして知らない町で知り合ったばかりの女性と食事をしている。
それも悪くない気がしてくる。
その時だった。
志乃が窓の外を見たまま、小さく呟く。
「……あれ?」
紘一もつられて視線を向けた。
路地の先。
黒壁の角に立つ街灯の下に、誰かが立っていた。
黒いコート姿。
傘も差さず、こちらを見上げている。
だが次に車のライトが通り過ぎた時には、もう誰もいなかった。
志乃はグラスを持つ手を止めたまま、小さく笑う。
「旅先って、たまに変なもの見ますよね」
その声だけが、少し硬かった。
店を出ると、夜の空気は少しだけ冷えていた。
「これ」
志乃が封筒を紘一に差し出した。
トイレに一度離れたときに用意したのだろう。
受け取るのは…と思いながらも「気にしなくていいのに」とジャケットの内ポケットにしまった。
「受け取るんだ」
澪が大きな瞳をキラキラさせながら言う。
「もちろん、領収証2つに分けてあるしね」
「えっ?」
「スマートなやり取りを身に着けるのは女としての美徳かも」
紘一は苦笑を澪に向けながら、二人分の領収書を志乃に渡した。
黒壁の通りを抜けると、人通りは急に少なくなる。
観光客の笑い声も、店先の灯りも背後に遠ざかり、代わりに水の流れる音だけが耳に残った。
石畳の脇を細い川が流れている。
幅は狭い。飛び越えられそうなほどの水路だ。
それでも水は思ったより澄んでいて、街灯の明かりを細かく揺らしていた。
古い町家の裏手を縫うように流れるその川沿いには、低い柵と柳が続いている。
それらもきっと、観光のために整えられた景色なのだろう。
けれど、昼間に歩けばそれはノスタルジックな光の悪戯に見える。
古い町並みを、どこか懐かしい記憶に変えてしまう。
そして夜になると、同じ場所が別の顔を見せる。
夜風が吹くたび、水面に落ちた灯りが崩れていく。
静かな流れだけが残り、その町は昼とは違う風情をまとっていた。
「駅まで、この道で行けるんです」
先を歩く志乃が振り返らずに言った。
その隣で澪は少し酔いが回ったのか、楽しそうに川を覗き込みながら歩いている。
時々、川を覗きこんで落ちそうにふらつく。
さすがに三度目になると心配よりも、もう落ちてしまえと思ってしまう。
「長浜って、こういう水の町なんですね」
紘一が漏らすと、志乃は少しだけ足を緩めた。
「昔から港町だから。琵琶湖に近いところは、こういう水路が残ってるんです」
言われてみれば、空気が違う。
海沿いの潮の匂いではない。
もっと淡くて、冷たい水の匂い。
湖の水が町の奥まで入り込んできたみたいな気配だった。
川沿いを抜けると、遠くに長浜駅の灯りが見え始める。
駅前の白い照明が、水面に細長く映って揺れていた。
そのときだった。
紘一はふと、川向こうの暗がりに視線を止めた。
古い倉の壁際。
誰かが立っている気がした。
黒い傘。
俯いた顔。
だが次の瞬間、澪が腕を引っ張る。
「ほら、信号変わるよ」
振り向いた時には、そこにはただ濡れた石畳しか残っていなかった。
店の灯りは少しずつ減り、代わりにビジネスホテルの看板が見え始める。
長浜駅前は港側とはまた雰囲気が違っていた。
観光客向けの町並みから一歩外れるだけで、地方都市らしい静かな夜になる。
駅前ロータリーにはタクシーが二台停まり、コンビニの白い灯りだけがやけに明るかった。
そのまま三人で歩いていると、最初に澪が立ち止まる。
「私、ここです」
指差したのは駅前の新しめのビジネスホテルだった。
白い外壁に青い看板。出張客がよく使いそうな、ごく普通の建物。
「え?」
紘一は自然に志乃の方を見る。
当然、同じホテルだと思っていた。
だが志乃は少しだけ肩をすくめた。
「私はもう少し先」
澪が笑いながら手を振る。
「会社の手配なんです。部署違うと宿も別で」
「そんなことあるんだ」
「あるんですよ。経費とか、提携先とか」
そう言いながら澪は軽く会釈し、ロビーへ消えていった。
自動ドアが閉まる音が、やけにあっさりしているように感じる。
残されたのは二人だけ。
どうするべきか…そんな思案が言葉を奪っていた。
紘一は苦笑を漏らし、「まぁ、送りますか」と確認した。
「助かります」
志乃はそう言って歩き出した。
その背中を追いながら、紘一はなぜか港に置いてきた車のことを思い出していた。
お読みいただきありがとうございます。
基本的に 不定期更新の のんびり進んでいきます。
ご意見、ご要望あればうれしいです。
アイデアは随時…物語に加えていければと考えています。
今回、チャレンジ企画に挑戦!です
よろしければお付き合い願えればと思います
☆作品テンポの関係で30分後に次の話をUPします




