第6話 予定は未定ということで…結局、夜の琵琶湖で過ごしても?
名神高速へ入った頃には、空の色が少し変わっていた。
静岡で見上げた空とは、どこか色が違う気がした。
同じ空のはずなのに、白く乾いて見える
視界の中を流れていく空の色に一喜一憂するなんて…助手席が空いているのが…
そんなことを思っていると案内板に「米原」「彦根」の文字が増え始めた。
ようやく近畿まで来たのだと実感した。
フロントガラス越しに見える山並みも、少しずつ近畿の輪郭へ変わっていく。
紘一は片手でハンドルを押さえながら、小さく欠伸を噛み殺した。
浜名湖で仮眠を取ったとはいえ、身体の芯には疲労が残っている。
色々な意味で…
でも、不思議と眠気は薄かった。
代わりに妙な高揚感だけが残っている。
旅に出た直後特有の感覚。
日常から切り離されていく時の、少しだけ浮ついた感覚だった。
道路標識が流れていく。
長島。
案内板の文字を見た瞬間、紘一は一瞬だけブレーキに足を乗せた。
「長浜…もう着いた? 速度誤ったかな」
苦笑しながら、メーターの間にある距離計を見る。
当然、そんなわけがない。
ナビ画面を見て、三重県の文字に苦笑する。
長島。
遊園地で有名な方だ。
疲れているらしい。
もう一回くらい休憩を入れるべきか…そんなことを考えてしまう。
でも、似たような字面を見ただけで目的地に見えてしまう。
「年取るって怖いな……」
独りごちてアクセルを踏み直す。
その時だった。
助手席の白黒写真が、カサリと音を立てた。
後部のテーブルに置いたはずなのに…
長島を過ぎた頃には、窓の外の空気が少し変わっていた。
伊勢湾岸の平野を抜け、急遽、多賀SAに立ち寄ることにした。
ここまで来ると、売店の棚にも琵琶湖推しが並ぶ。
パンフレットの一枚を何となく手に取る。
そこには、湖上に浮かぶ小さな島。
急な石段。
朱色の門。
そして大きく印字された名前。
竹生島。
観光地としても有名だ。
弁財天信仰。
かわら投げ。
縁結び。
小さな写真には、黒い湖面と霧。
そして、説明文の端に書かれた一文…
神秘の島。
そちらは、最近流行の御朱印のせいだろうか。
島では古くから龍神伝承が残っていたはずだ。
紘一はその文字を見て、無意識に葉月の言葉を思い出した。
『嫌な感じ』
あれ…?
もう一度パンフレットに目を落とす。
何を見ていたのだろう。
クルージングの案内に変わっていた。
「よし、疲れている」
パンフレットを片手に車に戻る。
何となく後部のテーブルの上にそのフライヤーをふわっと流した。
「ただの取材なんだけどな」
そう呟いた声は、なぜか少しだけ乾いていた。
気を取り直してハンドルを握る。
多賀SAで一息ついた頃には、案内標識に「米原」の文字が増えていた。
そして分岐を越えた先に、見慣れない表示が現れる。
『長浜 出口9km』
「おっ」
思わず声が漏れる。
初めて来る土地ではない。
それでも、自分の運転で辿り着く旅先は少し違って見えた。
そして…
『ようこそ 滋賀県へ』
取材でも何度か通っているとはいえ、旅として跨ぐ県境は少し違った。
助手席に投げていたスマホが震える。
自然とビクンとしてしまう。
【着いた?】
葉月だった。
タイミング良すぎるだろ。
紘一は苦笑しながら、音声入力を立ち上げる。
「いま滋賀…まる…送信」
送信。
数秒後。
【生きてた】
「失礼な」
笑いながら返しかけて、ふと手を止める。
昨日から、妙に生きているを意識させられている。
事故。
タイヤ痕。
額の傷。
水難。
占い。
頭の片隅に残った単語を振り払うように、紘一は窓を少し開けた。
冷たい風が流れ込む。
その風に混じって、微かに水の匂いがした気がした。
「……気のせいか」
琵琶湖までは、まだ少し距離がある。
それなのに。
見えもしない湖の気配だけが、先にこちらへ届いているようだった。
黒いバンは、そのまま北へ走る。
空の下を滑るように。
長浜ICを降りると、空気が少し変わった気がする。
高速道路の乾いた流れから切り離されて、急に町の呼吸の中へ入ったような感覚。
片側二車線の道は思ったより広く、道沿いには郊外型の量販店や飲食店がぽつぽつと並んでいた。
全国どこにでもある看板ばかりなのに、どこか見え方が違う。
たぶん、背後に山が近いせいだ。
夕暮れを吸い込んだ伊吹の山並みが遠くに黒く連なっている。
町は平らだった。
驚くほど平坦で、自転車に乗った高校生が風に押されるように交差点を渡っていく。
その向こうに古い瓦屋根の家が残り、さらに先には新しい住宅地も見えた。
観光地の玄関口というより、人が普通に暮らしている町だった。
その何でもなさが逆に落ち着く。
信号待ちで止まるたびに、窓の隙間から湿った風が入り込んできた。
湖の匂いなのかもしれない。
潮の気配はない。
海じゃない。
それでも水辺特有の、少し冷えた匂いが混ざっていた。
駅前に近づくにつれて、古い町並みが増えていく。
低い商店。
格子戸の残る建物。
土産物屋の軒先には、ガラス細工や鮒寿司の看板。 鮒寿司
観光客向けに整えられているのに、夕方だからか、それとも平日のせいか人通りは少ない。
その代わり、学生服のまま自転車を漕ぐ子どもたちが目についた。
港への案内標識に従って曲がる。
道幅が急に狭くなっていく。
建物の隙間を抜けるみたいに進むと、突然、視界が開けた。
そこにあるのが琵琶湖。
思わずアクセルが緩む。
湖という言葉で想像していたより、ずっと広い。
対岸が霞んでいる。
波は静かなのに、水面は夕暮れを飲み込んだみたいに暗い。
駐車場に入ろうとすると係員が駆け寄ってくれる。
「竹生島ですか? 今日はもう終わりです」
年配の係員が申し訳なさそうに笑った。
紘一は時計を見る。
予定では朝一、変更したものでも3時間前にはついているはずだった。
途中の事故を色々と思い返してしまい、ため息しか漏れない。
本日最後のイベントは泊る処探しになるか?
そんな嫌な予感だけが頭の中で膨らんでいく。
「明日は…?」
自信無さげに訊いてしまう。
「ありますよ」
「この辺で車中泊できそうな…」
「…大きな音を出さないのなら…そこの奥で」
「本当に?」
「でも、出れませんよ。明日まで」
「ありがとうございます」
紘一は頭を下げると指定された位置へと車を動かした。
トイレ脇のその場所は停まっていてもあまり目立たないようだ。
係員が出入り口を閉鎖している。
エンジンを切ると途端に静かになった。
フロントガラスの向こうに、湖面が薄く光っている。
助手席の白黒写真を見ないようにしながら、紘一は深く息を吐いた。
「…さて、今夜は観光だな」
港から街へ向かう道は、そのまま古い商店街へ続いていた。
石畳に近い舗装。
低い軒先。
格子窓の古い建物。
観光案内板に、黒い漆喰の建物の写真が載っている。
黒壁スクエア。
名前だけは知っていた。
ガラス工房と古い町並みで有名な場所だ。
夕方の店じまい。
ノスタルジックな空気の中で動く人の流れに日常の幸せを感じてしまう。
長浜に滞在するのは2日の予定だ。
竹生島とその周辺観光。
夜も観れるのならそれに越したことはないだろう。
電灯が彩る街を写真に収めていく。
ときにはスローシャッターなども使ってみるのもいいものだ。
どの町でも幾つかの顔を見せる。
観光地は特に三つの顔を見せてくれる。
そのどの顔も紘一は好きだった。
それぞれに味わいがある。
でも、できることなら、その切り替わる瞬間を納めたい。
三脚にカメラをセットして光をとらえる。
シャッターが落ちるまでの間、周りを眺める。
スローシャッターが落ちるまでのわずかな時間。
そういえば、と紘一は苦笑した。
葉月は、こうしてカメラを構える自分を黙って眺めていた。
美里は、早く行こうと荷物の片付けを手伝ってくれる。
一緒にいるわけでもないのに、なぜか二人のことを思い出してしまう。
「あのぅ」
「ん? 写真? 撮りますよ」
「あ…ありがとうございます」
観光客とは思えないOL風の二人の写真を撮り、紘一はスマホを返した。
「あ、お兄さん良かったら」
「?」
紘一は後ろを一応見る。
「?どうして?」
「怖いお兄さんが表れてとか…本当にお兄さんがいるかもしれない?」
クスッとその女性は笑った。
「暇だったら…食事でも」
「………」
バッ!と振り返った。
「いませんよ」
「おじさん相手にナンパ?」
「結構イケオジですよ」
ガラス細工の店先に明かりが灯り始めていて、曇り空の下でも妙に温かく見える。
港の風とは違う、焼き鯖と醤油の匂いが漂ってきた。
ぎゅるる、と腹が鳴る。
その時だった。
尻ポケットに挿してあったスマホが震える。
メッセージを確認すると『……変なの拾ってない?』だけ。
「お邪魔でした?」
「いや、家なき子だけどいい?」
「……食事だけだし」
「じゃあ、おいしい店を紹介してね」と名刺を差し出した。
おふざけで作ってみた電子名刺。
スマホを翳すだけでデーターの読み込みができる。
スマホ上で掲示されている紘一の情報を見ながら彼女が呟いた。
「おいしいお店を紹介してもらおうと思ったんだけどな」
「残念。僕は現地開拓派だ」
「もしかして…ナンパ対策?」
紘一はクスリと笑った。
「モテるおじさんだったらいいんだけど…一緒に探索する?」
「どうせ分からないなら、それもいいかも」
女性はそう言って、スマホをポケットにしまった。
近くで見ると、年齢は美里と同じくらいか、少し上かもしれない。
肩までの黒髪は雨上がりの湿気で少しだけ外に跳ねている。
派手さはないのに、妙に目を引いた。
「あ、篠宮 志乃」
差し出された手は冷たかった。
その冷たさに少しだけ驚きながら、紘一も軽く握り返す。
「鳴海紘一。しがない旅ライター」
志乃は小さく笑った。
「さっき電子名刺貰った。でも、旅ライターなのにお店知らないんですね」
「だから探すんだよ。迷うの込みで旅だから」
その言葉に、志乃は一瞬だけ真顔になる。
「言い訳にしか聞こえない」
「鋭いね」
「でも…」
志乃は何となく琵琶湖の方へと視線を向けた。
建物があって見えないはずなのに…
「迷っていいのは、戻れる人だけですよ」
ポツリと呟いた声が耳に引っかかった。
聞き返そうとした瞬間、一緒にいた高槻澪が紘一の腕に手を絡めた。
「行きましょう」
「お。おう」
紘一が振り返る。
その一瞬だけ…志乃の足元に落ちた街灯の影が、ひとつ多かった気がした。
お読みいただきありがとうございます。
基本的に 不定期更新の のんびり進んでいきます。
ご意見、ご要望あればうれしいです。
アイデアは随時…物語に加えていければと考えています。
今回、チャレンジ企画に挑戦!です
よろしければお付き合い願えればと思います
☆作品テンポの関係で30分後に次の話をUPします




