第20話 人の心は論理でどうにかなるものではなく…ときを必要とします!
志乃はジッと玄李を見詰めた。
紘一に触れている指先にも力が入ってしまう。
あの時…体調が悪いといった叔母さんを独りで病院に行かせたことを後悔している。
その事が、ずっと胸の奥に残っていたのだと気付かされる。
数年前のパンデミック。
あの頃の記憶だけは、まだ身体の奥に残っていた。
咳。
熱。
倦怠感。
たったそれだけの言葉で、世界が止まっていた時代。
その嫌な記憶が、病院へ一緒に行くことを無意識に拒ませていた。
志乃の周りにも戻らぬ人がいた。
学友の中にはいまも後遺症に苦しむ人がいる。
だからだろうか。
『風邪かもしれない』
その一言だけで、胸の奥が冷えていく。
病院へ行こう。
そう口では言える。
でも心のどこかで、『近付きたくない』と思っている自分がいた。
大丈夫。
きっと大丈夫。
そう言い聞かせながら、志乃は叔母さんを見送ったのだ。
玄李の言葉は優しい。
温かい。
だからこそ気付かされる。
自分が逃げ出した事柄に…
『風邪』という音だけが…今もいくつもの悲しみを引きずったままだと伝えてくる。
紘一の手が、トントンと一定のリズムで志乃の手を叩いてくれていた。
それだけで独りじゃないと安心できる。
志乃は自分の意識を内側へ、内面へと向けた。
小さく静かに呼吸する。
人の悪意を痛いと感じたのはパンデミックのときだった。
症状が落ち着いた友人を迎えに行ったときだった。
退院と言っても完治したわけでは無い。
これからも、後遺症と関わっていく可能性がある。
すでにそんな情報も流れている。
どれが正しいのかわからないほど情報が溢れ、世界が揺れていた。
ただ、志乃は友人のために車を準備しただけ。
荷物を運びこみ、彼女が駐車場へと出てくるのを待っていた。
だから本当は聞く必要もない話を偶然聞いただけ。
勝手口の前で煙草を吸いながらスーツ姿の男がポロシャツの男と話をしていた。
もう仕事を引退していてもおかしくない年齢の男が印象に残ったのは…
妖怪ぬらりひょんに似ていると思ったからだ。
何もすることも、できる事のない暇な時間のささやかな悪戯のようなものだ。
散らかした頭からすれば年齢はそれなり…
そのわりに妙に飄々とした男だった。
皺だらけの顔で煙を吐きながら、まるで他人事みたいに笑っている。
その姿が、志乃には昔話に出てくる妖怪……ぬらりひょんみたいに見えた。
勝手口から入り込み、気付けば家の真ん中に座っている。
そんな、人の隙間に入り込む妖怪。
もちろん失礼なことを考えている自覚はある。
働いている人たちには申し訳ないが…ただ待つしかできない人間のささやかな息抜き。
それくらいは、周りにも害はないだろう。
ただその傍にいるのは荷物が届いたら持ってあげたいから。
それがよくなかったのかもしれない。
「それで…どうなんだ?」
「ああ…うちは開業以来黒字になったよ」
ぬらりんが自慢気に笑った。
「緊急包括支援金で?」
「あ、もちろん…でも、それだと…」
スーツはため息を漏らしてから「患者の受入れでスタッフが疲弊しないか?」と零した。
彼の顔には、医療スタッフの苦悩に対するねぎらいが感じられた。
「確かに、病床埋まるだけで金になる時代とはいえ、現場はな」
ぬらりんが煙を吐きながら笑った。
その表情にスーツが顔を覗き込む。
「馬鹿正直に患者を受け入れる必要はない」
「ん? でも受け入れ断ったら文句来るでしょ?」
「無理なもんは無理だろ。熱出たら全部こっち来るんだから」
その声は、疲れているようにも聞こえた。
「それでも…だ」
ぬらりんはニヤリと笑い「中のことは外にはわからない」と煙草を口にした。
その言葉に文句を言いそうになった。
ただの雑談。そうであっても…
いま退院しようとしている友人も…
他の病院で入院している友人も…
ホテル隔離されている症状が軽いとされている友人も…
みんな分からないという恐怖の中で必死に医療に縋り付いているのに…
「病棟が一杯です。それだけで、諦めるさ」
「な…柴山。お前のところコープ病院だったよな」
「嘘かどうかはわからない。いましているこの話もな」
ぬらりんは煙草を病院の壁に向かってピッと弾いた。
壁に当たり、地面に転がった煙草をスーツが足で消してから拾い上げる。
「それも、そうか」
「ただ、病院は黒字になったから、改装はできただけだ」
人が苦しんでいる。
死ぬかもしれない。
それなのに。
そんな話を、煙草を吸いながら出来てしまう。
醜悪なものを見てしまったせいか、志乃はその場にしゃがみ込んでしまった。
気持ち悪い。
苦しい。
吐きたい。
「大丈夫ですか?」とスーツが声をかけてくれる。
その向こうで面倒くさそうに蔑む視線をぬらりんは浮かべていた。
「ありがとうございます」
壁に手をついた瞬間、スーツが手を指しのべてくれた。
その行為に甘えようとした瞬間「俺が声をかければよかった」と声がこぼれる。
人の顔が醜くゆがむ瞬間を目の当たりにした気分だった。
ただの風邪。
それなのに…そこに混ざるこの笑い声だけが耳に残った。
また…
志乃は身体が震えるのを感じていた。
自分の意志ではなく、身体が先に恐怖で震えている。
『死』という存在がうろうろとしている気配に。
紘一は、ポケットからハンカチを取り出し、志乃の額に当ててくれた。
噴き出した玉のような汗が吸われていく。
少し身体が落ち着いた気がした。
「入院手続きで連絡が来た」
玄李は様子を見ながらポツリと続けた。
「…いや、違うな。頼れる相手が、お前しか居なかったから」
志乃が俯く。
「独り身だったか。彼女も男に振り回されたようだな」
小さく頷く。
「病院は、熱をどうにかしたい。でも原因がわからないままの投薬は…」
玄李の言葉は曖昧だった。
それなのに、妙に正確だった。
「離れていた時間は短い。30分…いや、それより少し短いか、それでも」
紘一が眉を寄せる。
「なんでそんな事まで…」
「俺に見えているわけじゃない。志乃についているものが教えてくれている」
「………」
志乃も紘一も咄嗟に後ろを振り返った。
玄李は淡々と言った。
「ソイツも全てを知るわけではない。ただ断片のものだ」
「………」
「この辺で俺の話を信じてもらえるかな?」
玄李は言葉を区切った。
志乃が静かに頷く。
紘一もそれに従った。
「俺に分かるのは思念の残り香を感じるだけ。でも、それは正しい保証はない」
「どういうことだ?」
「強い思いは形として残る可能性が高いが、同種の思いも絡むことがある」
「違う人の思いと記憶?」
「お前もなかなかな鋭いな」
玄李はニヤッと笑った。
「最初は無垢な存在。育つ間に凶暴な…それは人という種も同じだろう」
紘一は、天井を見上げた。
はぁ~と大げさに溜息を吐く。
「志乃さん?」
「合っている。その日から高熱で面会謝絶。会えたのは3日前」
「そっか」
紘一は玄李に視線を向けた。
続けというように。
玄李は頷きまっすぐに紘一を見た。
正確には、凭れるようにして座っている志乃を。
「ここからが本題だ」
「お、おう」
「発熱の原因は、ウイルスでもなんでもない」
「えっ」
「先に謝っておくことがある」
玄李が神妙な顔を向ける。
志乃の指先に力が入る。
「神の因子というのが一番近いか?」
「…質問されても」
紘一が困惑する。
「我らは命の進化系にすぎない。最初は蛇だった」
「聞いたことあるやつかな」
「そうだな。過去の刻の中で人にそれを見られた者もいる」
玄李は照れ臭そうに笑った。
悪ぶれた様子もなく。
「俺たちはこの地に辿り着いてから…この地で進化をしたわけではない」
玄李は珠姫の方をちらりと見た。
気遣う様子から事態の深刻さを感じてしまう。
「いや…そういうは話ではなく」
玄李が溜息をつく。
余計なことを言ってしまったかと、紘一は苦笑いをした。
不思議な感じだった。
もう長く一緒にいる幼馴染のような気がしてくる。
「俺たちは、その地に根付くときに秘石を利用する」
「秘石?」
「元は何でもいい。その石に神力を注ぐことで俺たちはその場を一時的に離れることができる」
「それが今回のことに関係する?」
「ああ。秘石はその樹の根元にある。俺のと」
「珠姫さんのと」
「ああ。それを掘り起こそうとした奴がいる」
玄李は溜息をついた。
性善説というところだろう。
人がそれをするという風には考えていなかった。
少なくともこの地に来る人がするような悪意を持っているとは。
この地は、ただの観光地ではない。
弁財天が護る島だ。
軽い悪意や欲だけで踏み荒らされるべき場所ではなく、そうならないはずの場所。
つまり、その力が弱っていたということだろうか。
「俺たちがこの島を離れることで、生まれた隙間に、魔が紛れ込んだようだ。
その声だけが、妙に重く響いた。
「人が、我らと長い時間をかけて棲み分けてきた地を汚されるとは不覚としかいえん」
「…それだけじゃないよな」
紘一は、口角を上げて見せた。
お読みいただきありがとうございます。
基本的に 不定期更新の のんびり進んでいきます。
ご意見、ご要望あればうれしいです。
アイデアは随時…物語に加えていければと考えています。
今回、チャレンジ企画に挑戦!です
よろしければお付き合い願えればと思います




