第1話 恋人の時間は分かり合えますか?
経理で封筒を受け取った。
中身を確認するまでもなく、旅費と取材経費だ。
こういう時だけ、編集部は仕事が早い。
経理部の扉を閉めて手を合わせてお辞儀をしてからエレベーターホールへと向かう。
すれ違う社員がクスクスと笑っていく。
それを気にかけるほどダンディな生き物ではない。
と紘一は封筒をジャケットの内ポケットに押し込んだ。
預かった経費をジャケットに押し込んで葉月に何度も怒られたことを思い出す。
思い出すこともないと思っていた記憶。
それを思い返させるのは美里の存在だ。
彼女も同じことで怒る。
『大切にしないとそのうち罰が当たる』と。
確かに…紘一は頬をさすりながらエレベーターのボタンを押した。
新築されたビルは別にテナント貸しもしているせいで、箱が到着するまでは時間がかかる。
別に時間を縛られる仕事じゃない。
到着を知らせる音とともに扉が開いた。
乗り込もうとした、その時だった。
ドン!と背中に何かが勢いよくぶつかった。
そのままエレベーターの中に押し込まれてしまう。
「ごめんなさい」
「あ、いや」
あまりの光景に他に乗ろうとしていた人たちが固まっていた。
そのまま無情にも扉が閉まる。
行先階を押していないのにエレベーターは動き出す。
「大丈…夫?」
紘一は女性の肩を支えながら起こそうとして息をのんだ。
狭い箱の中に、湿った香水の匂いが残った。
紘一は目を丸くした。
一応、頭の中をフル回転させて腕の中にいる相手を否定する。
エレベーター内での様子は警備室でモニターされていることも言い聞かせる。
ただ、どう足掻いても否定できない。
「…美里?」
「えっ」
三枝美里は肩で息をしながら、唇を噛んでいた。
さっき紘一を叩いて出ていった女とは別人みたいに、顔が強張っている。
「ごめん」
開口一番、それだった。
紘一は数秒黙ってから、小さく笑う。
「二発目じゃなくて安心した」
「…言っておくけど、わざとじゃないからね」
「これわざとやったら暴力だけど」
ちん!
「とりあえ…」
ドアが開き、乗り込もうとした人たちが固まる。
密室といえる箱の中。
男女二人。
それも男が下で女を抱き寄せている。
女の衣類も少し乱れがある。
「きゃぁああああああ!
その叫びが響いた。
「やばっ…出るわ」
「待って」
美里を立ち上がらせて横を抜けようとした紘一の手を美里が掴んだ。
「え」
「あ、ごめん」
ほどなく警備員が駆けつけてくれる。
「厄日か?」
紘一はため息をつきながら頭をかいた。
警備室から無事に解放されるまでに時間をとられることになった。
誰が悪いというわけでもないが、仕事とはいえもう少し優しくしてほしい。
紘一が駆けつけた警備員には説明を一応したが推定加害者の言葉を聞くわけがない。
当然、悲鳴を上げた人に事情を聴かれるが…
泣きながら語られるその支離滅裂な妄想にそこにいた誰もが言葉を失った。
ただそれを否定する材料はない。
他の人たちが紘一たちを目視したときには、床に座って女の肩を抑えている状況だった。
唯一見た人の証言、そして、小パニックで泣き出した美里。
びっくりするくらい悪い条件だけが揃っていた。
で、連行。
ビデオの確認で潔白が示されたとはいえ、別の問題が発生した。
件の発見者が『嘘をついていない!』と声を荒げている。
「すみません」
「全然」
紘一は苦笑で返した。
部屋の前で待っていた美里が「ごめん」としおらしく言う。
「いや…大丈夫? 急ぎの用じゃなかったの?」
紘一は、少し困っている美里の顔を覗き込みながら声をかけた。
三枝美里は息を整える間もなく口を開いた。
「家に行ったんだけど」
紘一は目を瞬かせた。
「え…引き払ったよ?」
美里の眉がぴくりと動く。
「そういうとこ」
ため息混じりに吐き捨てる。
「他の人が住んでいた。彼女さんがいて…喧嘩になりそうになった」
「…結構便利がいいからすぐに埋まったのかな?」
「3か月も住んでいるって!」
「もうそんなに?」
紘一は少しだけ視線を逸らした。
「『そんなに』じゃないでしょ」
廊下に声が響く。
「どうして?」
「あ…家建てから」
「それも聞いてない! 何で言わないの?」
「いや、別に隠してたわけじゃ……」
「私は何?」
その言葉で、紘一はようやく黙った。
警備室の扉の向こうの気配が動く。
どうやら、出たいのに出にくい雰囲気になっている。
確かにこの状況では、紘一は苦笑いをかみ殺した。
紘一は一瞬だけ美里を見て、それから小さく肩をすくめた。
「…さてと」
それだけ言って歩き出す。
「ちょ…ちょっと待って」
美里の声を背中で聞き流しながら、紘一はそのまま地下階への階段へと足を向けた。
階段を降りるとき、警備室のドアが開き、ちらりと顔を覗かせた。
地下へ下るコンクリートの坂に足音が響く。
「聞いてる?」
「聞いてるよ」
振り返りもせずに答える。
「聞いててその態度なの?」
「と言われてもね?」
美里は一瞬言葉に詰まり、それから声を低くした。
「引っ越したなら、言ってよ」
その一言に胸にグサッとくるものがあった。
紘一はようやく立ち止まった。
でも、何か言える言葉が見つけられずに足を進める。
駐車場へ続く階段を軽いステップでトントンと降りていく。
その紘一の背中を、美里はヒールを鳴らして追いかけるしかできなかった。
「別に隠してたわけじゃないって」
「結果的に隠してるのと同じでしょ」
紘一の言葉が足りないのは理解している。
彼がコミュニケーション能力を発揮するのは仕事のときだけ。
プライベートの時間は誰かが傍にいないとかなり抜けている。
そこを可愛いと思うけど…やっぱり許せない部分はある。
止めてと言えば直す努力はしてくれるが…それが口うるさくなる原因なのかもしれない。
返す言葉が見つからず、紘一は苦笑した。
ポケットから車のキーを取り出す。
じっと見つめる。
そういえば美里の家に転がり込んでいる間は電車が中心だった。
取材先も電車の方が便利だった。
どう考えても、これも秘密にしていたのだろうか。
そのまま黒いワゴン車の前で立ち止まる。
元々は黒の商用バン。それをシートと足回りを変えて…
中に居住スペースを作ってある。
いわゆるDIYというもので仕上げている。
動画配信系チューバーの動画を参考にしてみた。
それなりにお金と労力が…そういえばデートの回数減らした気がする。
『これで一緒に遊びに行こうぜ』で許してくれるだろうか。
ただ積載している内容的に問題がある。
いわゆる車内泊使用。
取材道具も寝袋も積みっぱなしで…掃除をしたのは…
現地移動用のカブも積み込んである。
当然だが地図や雑誌が雑然と積まれてもいる。
中古とはいえ、ロング車体のワンオーナー…突っ込みどころは満載だ。
せめて、年季の入った四駆できていればよかった。
…ないけど。
考えるだけ喧嘩の…文句のネタの提供にしかならない気がする。
すでに向けられている視線が突き刺さるように痛い。
「乗る?」
振り返りもせずに紘一はそう言った。
こういうのが欲しいというのは酔うとよく言っていたから驚かない。
でも、挙動不審の様子から何か突っ込みどころがあるのはわかる。
一回りも年上なのにビクビクしているところが少し健気でちょっぴり可愛い。
紘一が助手席側のドアを開ける。
答えを待てないのも彼らしい。
美里は呆れた顔をして見せる。
ただ黙って乗り込む。
ドアが閉まる。
紘一は小さく笑って運転席に回る。
独特のディーゼルエンジンの音が広がり、紘一は何も言わずに車を走りださせた。
外は曇っていた。
雨はまだ降っていないが、どんよりとした曇天はいつまでも好きになれない。
何よりも空気が重く感じられてしまう。
「ちょっと待って」
その声に車を停車させる。
何となくフロントガラス越しに編集部のビルを見上げた。
心なしか美里がシートに体を押し付けるようにして体を下げた。
何となく上から届く視線に葉月を感じてしまう。
美里は少し慌てたようにスマホを取り出した。
操作に慣れた指先でどこかへメッセージを打つ。
数秒後、画面を閉じた。
「編集長に言っといた」
「何を?」
「取材で外出」
紘一は思わず笑った。
「何の取材だよ」
「四十路男の生態」
「…絶対その記事売れない」
美里は窓の外を向いたまま、小さく鼻を鳴らした。
車はゆっくりと郊外へ向かう幹線道路へ滑り出す。
都心を離れるにつれ、窓の外の建物は低くなっていく。
高架道路を抜け、住宅街を抜け、さらに外れへ。
やがて周囲は倉庫と空き地ばかりになった。
「こんなところ?」
居眠りをしていた美里がようやく口を開いた。
紘一はハンドルを切りながら笑う。
「土地がたまたま安かった」
細い道の先。
住宅街とは思えない一角に真新しい建物が見えてくる。
その周囲は青空駐車が取り囲んでいるため妙に目を引く。
外観は無機質で、ぱっと見は小さな事務所付き倉庫にしか見えない。
壁は薄いグレーの金属パネル張り。
正面には横長の駐車スペースがあり、軽バンやワゴン車が数台停められる。
一階部分にはシャッター付きの収納区画が並ぶ。
同じ幅の鉄製シャッターが無機質に続いている。
二階へは区画毎に内階段で上がる造りになっている。
窓は少なく、夜になると外灯の白い光だけがコンクリートの床を照らす。
一見すると味気ない。
けれど紘一にとっては、その飾り気のなさが都合よかった。
建築価格が抑えられることもだが、駐車場付事務所は意外に需要がある。
ここで住むという選択をするのは紘一くらいかもしれないが…
その一番奥のボックスが、紘一の居場所だった。
シャッターを開け、そこに車をバックで車庫入れをする。
ロング車両がすっぽりと入る奥行。
「到着です」
美里は車を降りて、建物を見上げた。
「…何これ」
「ガレージ付き事務所」
遅れて美里の横についた紘一がポツリと言う。
「住んでるじゃない」
「俺はね、家主だし」
「良いの?」
「…たぶん」
「…住めるの?」
「寝袋あるし」
「住んでいるんだ」
美里のため息を聞きながら、紘一はシャッター横のドアを開ける。
同時にシャッターを下ろすボタンを押す。
柔らかなモーター音がしたかと思うとシャッターが静かにしまった。
薄暗い一階には工具棚と古いバイク、取材機材のケースが並んでいた。
二階へ続く鉄階段を上りながら、美里は呆れたように周囲を見回す。
「都内引き払って、こんなとこに?」
「仕事場にしたかったんだよ」
「一人で?」
「基本は」
「基本?」
「美里の家が俺の家だったから」
「………」
美里は階段の途中で足を止めた。
取材に行ったら何か月も戻らないのに?
それも事後連絡だけで、心配だけさせた後に…
それで居場所なの?
考えるだけで腹が立つ。
でも、それが鳴海紘一だと諦めるしかない。
この甘いマスクに、軽薄な動き、そして無責任発言。
誰かに責任を取らせることもなければ、お尻も自分で拭く男臭さ。
いまさら、何を言っても始まらない…か。
溜息だけをひとつこぼす。
振り返る。
その顔に怒りはもうなかった。
代わりに、少しだけ困ったような表情が浮かんでいる。
「収入、あるの?」
紘一は玄関の鍵を回しながら答える。
「ローンと固定資産税くらいなら何とか」
美里は数秒黙っていた。
それから、深くため息をつく。
「……莫迦」
そう言って、紘一の胸を軽く拳で叩いた。
本気ではない。
けれど、その一撃の方が、さっきの平手打ちより少しだけ痛かった。
とりあえず、仕事のことは忘れよう。
紘一は、鞄から資料をとりだすとデスクの上に放り投げた。
まさか、その島で次の仕事を押しつけられるとは思ってもいなかった。
葉月が紛れ込ませた怪異の資料が隠れたことも。
すでにこの旅の始まりになっていたことも。
いまはただ、美里をギュッと抱きしめるだけに集中したい。
お読みいただきありがとうございます。
基本的に 不定期更新の のんびり進んでいきます。
ご意見、ご要望あればうれしいです。
アイデアは随時…物語に加えていければと考えています。
今回、チャレンジ企画に挑戦!です
よろしければお付き合い願えればと思います




