prologue ~はじまり~
パンッ!
乾いた音が、編集部の通路に響いた。
数人が顔を上げる。
だが、それだけ。
誰も止めない…どころか立ち上がろうともしない。
「最低!」
女は涙目のまま叫ぶと、バッグの中から白いマスクを引っ張り出した。
男をキッと睨んでから乱暴に耳へ掛ける。
そのまま踵を返し、ヒールを鳴らしながら去っていく。
取り残されたまま男は頬を摩りながら去っていく背中を見送った。
溜息が一つ漏れ、苛立ったような足音だけが、通路の奥へ遠ざかっていく。
「……いやぁ~」
通路の真ん中で、鳴海紘一は頬を優しく撫でていた。
一応周囲に目配りをしながら様子を窺う。
その間に少し遅れて頬が熱を持つ。
心地好いリズムを刻むようにジンジンと拡がっていく。
「結構…痛い…」
伸びかけた無精髭。
少し癖のある黒髪。
皺の入ったグレーのシャツを、肘まで雑に捲っている。
背は高い。
若い頃は、それなりに女に困らなかったのだろうと思わせる空気だけが、妙に残っていた。
四十手前にして、疲れた目をしているくせに、人当たりの良さだけは抜けない男だった。
「またですか?」
原稿の束を抱えた若手編集者が、通りすがりに呆れた顔を向けた。
「いい加減…飽きてきますよね」
「恒例イベントになっていますよ」
紘一は、そんな声を苦笑しながらやり過ごし、胸ポケットを探る。
煙草。
……ない。
途中で、「あ」と手を止めた。
禁煙中だった。それ以前に金欠でもあった。
昔は灰皿だらけだった編集部なら、シケモクを手に入れるのも困らないのだが…
綺麗に整頓されたデスクには灰皿の奥スペースは存在しない。
灰皿は個人で準備するものから…会社側が準備しておくものになっている。
このフロアで言えば、彼女が足早に向かっていたドアの向こう側にある。
廊下に用意されたガラス張りの喫煙ルーム。
最近は使う人も減っている。
というか人との接触は目で見て判るほどに減っているのは健康問題だけでは…。
自由に吸えた嗜好品もいまでは肩身の狭い趣味になっている。
何というか、世知辛い世の中だ。
「鳴海」
通路の奥から声が飛ぶ。
顔を上げると、デスクの島の向こうで朝倉葉月が手招きしていた。
紘一は頭をポリポリとかきながら、葉月の居る島へと近付いていく。
相変わらず、仕事のできる女の顔をしている。
朝倉葉月は、派手な美人ではない。
でも編集部の中にいると、自然と視線が向いてしまう女だった。
肩口で揃えられた黒髪は、艶を残しながらも、邪魔にならない程度に整えられている。
幾つかの雑誌編集長を担当しては、成績を残してきている仕事のできる女。
周りが頼る分だけ、その期待に応える努力家だ。
彼女は運というものと無関係なのかもしれない。
全て自分で実力で手繰り寄せている。
細い輪郭。
切れ長の目。
感情を表に出しすぎない視線が、どこか近寄り難い印象を作っていた。
紺色のシャツを好むのは、単純に汚れが目立たないからだと本人は言う。
だが、その落ち着いた色合いは、不思議と葉月によく似合っている。
長時間の編集作業で疲れているはずなのに、机に向かう姿だけは妙に凛として見える。
39歳。若い編集者に混じっていても不思議と古びて見えない。
きっと部下に向ける笑顔が若々しさを引き立てているのだろう。
流行を追わない代わりに、自分の空気を持っている女。
笑えば、周りの男は掘っておかないと思うのだが…
笑うことは少ない。
ただ、ごくたまに口元だけを柔らかく緩める瞬間がある。
その表情を見ると、この女に惚れた男は多かったのだろうと自然に思ってしまう。
過去形…紘一自身も多分に漏れない一人だった。
そんな話をした時代もある。
でも…いまさら…笑い話にしかならない。
それも二人で飲んでいるときの深くなっているときの定番。
葉月の視線は読んだ割にはモニターへと向いたままだ。
パソコン画面の光が、切れ長の目を少し冷たく見せている。
「また泣かせたの?」
視線を向けずに開口一番の一言。
定番のような『それ』にカタカタと入力作業にいそしむ編集者の視線が集まる。
「誤解なんだけどねぇ」
「その台詞、今年何回目?」
「数えてる?」
「途中で馬鹿らしくなった」
葉月は資料を一冊放って寄越した。
紘一は片手で受け取る。
表紙には、『琵琶湖特集 再起観光企画』と書かれていた。
「ドキュメンタリー風? 旅記事?」
「行ってほしいのは竹生島」
「あーって関西?」
紘一は、資料から葉月に視線を向けたが、相変わらずモニターを見詰めている。
紘一は雑にページをめくる。
数年前の感染災害は、世界中の景色を変えた。
人が消えた街。
閉じた店。
そして、戻らない観光地。
いまでは表向きこそ落ち着いている。
街には人が戻り、マスクを外す者も増えた。
それでも、一度途切れた流れは簡単には戻らない。
飲食業…
観光業…
地方経済…
取り残されたまま、静かに沈んでいった場所はいくつもある。
そういう場所に光を当てる企画が、最近やけに増えていた。
復興支援。
地域再生。
観光促進。
名目はいろいろあるが、要するに政府の後押しを受けた特集だ。
紘一はそういう言葉を見るたびに、昔の癖で勘ぐってしまう。
元事件記者。
肩書きを捨てても、その習性だけは抜けない。
あの感染災害だって、結局は何ひとつ解明されないまま終わった。
原因不明。
未知のウイルス。
水質汚染説。
人工流出説。
好き勝手な憶測だけが飛び交い、死者の数だけが積み上がった。
世界規模のパンデミック。
それがもたらしたものは、死と混乱、そして経済的な停滞だった。
いまでは別の話題が次々に現れ、人々はあの災厄を少しずつ忘れ始めている。
いや…忘れようとしているのかもしれない。
紘一が資料をめくり終わると葉月は顔を上げた。
「見ているのか見ていないのか…」
呆れた顔で呟いてしまう。
他の雑誌の特集記事のコピーも挟んである資料はそれなりの厚さだ。
その全てを読み切ったわけではない。
表面をなぞるように、触れる程度に情報を追っている。
性格的なことが無ければ、上司だったかもしれない。
「でも、どうして滋賀県?」
「クールタイムが必要でしょ」
「…あっ、あああ」
いまさら?という表情を浮かべながら葉月は椅子にもたれた。
「行ってきて」
「断る」
「経費出すよ」
「先払いで?」
葉月が苦笑を漏らして小さく頷く。
「行きます」
「現金」
「生きるって大事なんだぞ、俺みたいなフリーランスは」
葉月は小さく笑った。
その顔を見て、紘一も少しだけ口元を緩める。
昔。
こうして笑い合う夜が、何度もあった気がした。
でも結局、一度も恋人にはならなかった。
「……で?」
紘一は資料を閉じる。
「ただの観光取材じゃないんだろ」
葉月の視線が、一瞬だけ逸れた。
「最近、変な噂がある」
「心霊?」
「知らない」
「じゃあ何」
葉月は少し黙ってから…
「嫌な感じ」と漏らした。
紘一の指が、わずかに止まる。
「……それ、俺の担当?」
葉月は小さく肩をすくめた。
「だから呼んだ。うちからは出せないし」
それだけ言うと椅子をクルッと回す。
窓の向こう側に…
雨の気配を含んだ曇り空が広がっていた。
お読みいただきありがとうございます。
基本的に 不定期更新の のんびり進んでいきます。
ご意見、ご要望あればうれしいです。
アイデアは随時…物語に加えていければと考えています。
今回、チャレンジ企画に挑戦!です
よろしければお付き合い願えればと思います




