第10話 船旅です…大きなタコもイカも出ません!
竹生島へ向かう船は、思っていたより小さかった。
観光船という名前から、もっと遊覧船のような派手さを想像してしまう。
知っているのに、何となくミシガンを期待する。
単純に島へ渡してくれる足のようなもの。
実際には湖上バスに近い乗り物だ。
白い船体に青いライン。
室内席と室外に席があるそれは、室内から埋まっていく。
正直、朝の風は少し冷たい。
紘一は2階のデッキのベンチに座った。
エンジンが低く唸り、船体がわずかに震える。
その振動が足元から伝わってきて、ようやく本当に渡るのだと実感した。
岸壁では係員がロープを外している。
昨日、一晩停めさせてくれた駐車場の端が見えた。
黒いバンもそのままだ。
「留守番頼むぜ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
旅先では車ひとつでも拠点になる。
知らない土地で一晩過ごした後だと、それが妙に頼もしく見える。
やがて船がゆっくりと岸を離れた。
岸壁が遠ざかる。
長浜港の白い建物も、駐車場も、背後の町並みも少しずつ縮んでいく。
その景色を見て、紘一はふと思った。
陸から見る琵琶湖と、水の上から見る琵琶湖はまるで別物だ。
港に立っていた時は、ただ広い湖だと思っていた。
だが船が沖へ出ると、視界のほとんどが水と空になる。
境目が曖昧になるような錯覚に苦笑が漏れた。
曇り空のせいか、遠くの水平線も霞んでいる。
湖面の色も青ではなく、灰色に近い。
船が生み出す波は小さい。
それでも船首が切り裂くたび、水面に白い筋が長く伸びていく。
海ほど荒々しくはないはずなのに…少し強い揺れを感じる。
紘一はカメラを構えた。
ファインダー越しの湖は、さらに無機質だった。
広角にすると空ばかりが入り、望遠にするとただ白く霞む。
「難しいな……」
つい漏らす。
写真にすると、ただの曇り空と水面になる。
でも実際には違う。
この湖には、音がある。
エンジンの低い振動。
船体を叩く水の音。
時折、どこからか聞こえるカモメに似た鳥の声。
そして、その全部を包み込む妙な静けさも。
観光客たちはそれぞれ思い思いに過ごしていた。
年配の夫婦はパンフレットを広げている。
若いカップルはデッキで写真を撮り合っていた。
子ども連れの家族は窓に張り付いて島を探している。
皆、普通の観光だ。
なのに紘一だけが、どこか落ち着かなかった。
ポケットの中の乗船券を無意識に触る。
往復。
たった二文字なのに、まだ引っかかっている。
苦笑して、窓の外に視線を戻した。
その時だった。
船内アナウンスが流れる。
「右手前方に竹生島が見えてまいります」
反射的に顔を上げる。
最初は分からなかった。
霞んだ湖面の向こうに、小さな黒い塊が浮かんでいるだけに見えた。
島というより、湖に落ちた岩だ。
だが船が近づくにつれて、その輪郭が変わっていく。
木々に覆われた斜面。
その中腹に見える赤い鳥居。
さらに上には寺の屋根。
島全体が急斜面で、平地らしい場所がほとんどない。
観光パンフレットで見た時よりずっと小さい。
それなのに、なぜか視線を外せなかった。
湖の真ん中にぽつりと浮かんでいる。
ただそれだけの島。
なのに、その周囲だけ空気の色が違う気がする。
紘一は無意識にシャッターを切った。
カシャッ。
その音に、自分で少し安心する。
カメラ越しなら、ただの風景だ。
そう思いたかった。
けれど次の瞬間、ファインダーの端に何かが映った。
島の桟橋近く。
赤い鳥居の下。
白い服を着た女が、こちらを見て立っている。
…いや、立って居たら駄目だろう。
何となく見覚えがある印象がする。
志乃?
とっさにそう思ってしまう。
女神の悪戯……?
と、そこで思考を止める。
それはそれで問題だ。
神様が一般男性となんて…
(違う違う…)
志乃よりももっと長い髪。
白い傘。
紘一は反射的にカメラを下ろした。
肉眼では何もいない。
あるのは、朝の光を受けた竹生島だけだった。
船は、そのまま静かに桟橋へ近づいていく。
エンジン音が少し弱まり、代わりに島の石垣が近づいてくる。
上陸を待つ乗客たちが立ち上がり始めた。
紘一もカメラバッグを肩に掛ける。
その時、足元で小さな音がした。
カラン。
見ると、座席の下から黒い小石がひとつ転がり出ていた。
紘一は眉をひそめる。
拾おうとして手を伸ばしかけ……やめた。
船が桟橋に触れ、鈍い衝撃が足元に響く。
竹生島。
旅の目的地。
それなのに、なぜか到着というより、何かに招かれた気がした。
係留のロープが投げられ、船員の合図と同時に乗客たちが一斉に立ち上がる。
人が我先にと雪崩れるように降りていく。
急がなくても島は逃げない。
そう思ったが、すぐに理由がわかった。
竹生島を巡る観光船は本数が多くない。
島に滞在できる時間は、次の便を考えると実質一時間ほど。
乗り遅れれば次を待つしかない。
それだけ長浜観光に避ける時間が減る。
1時間の市内観光は大事だ。
だから皆、船を降りた瞬間から自然と足早になる。
竹生島は、ゆっくり見て回るだけでも一時間近くかかる。
宝厳寺の石段を上がるだけでもそれなりの運動だ。
島に降りた客たちは、二つに分かれるように流れていく。
景色を撮りたい観光客と、最初から迷いなく上を目指す人たち。
後者はだいたい手に小さな帳面を持っている。
御朱印帳だ。
最近はスタンプラリーのように集める人もいるらしい。
本来の意味合いとの違いに、神社仏閣では苦言を呈するところも出ている。
ただ、大切な収入元として、試行錯誤しているところもあるらしい。
船を降りてすぐ、売店の横でそれを取り出して確認している人もいた。
それでも、参拝するという行為は忘れられていないようだ。
船で渡る以上ふらりと寄れる旅ではない。
ただ景色を見に来たというより、参拝そのものが目的なのは忘れられていない。
パワースポットとして紹介されているだけに…それにあやかる人も後を絶たない。
そういう意味では、ちゃんと人を呼ぶ力があるのだろう。
島自体が信仰の場というだけに年配の夫婦の姿も目につく。
若い女性同士や、一人で来ているらしい会社員風の男もいる。
その様子を眺めながら、桟橋脇の案内板に目を向けた。
(さて…仕事しますかね)
島の中央にあるのは宝厳寺。
その隣に建つのが都久夫須麻神社。
寺と神社が同じ島の中で隣り合っている。
言葉にすると簡単だが、実際に見ると少し不思議だ。
神仏習合の名残としてそうなる場所がある。
神様と仏様が同じ場所にいる。
時代に翻弄された跡。
一つにまとめられ、また分けられた。
随分と人の勝手に振り回されている。
だからだろうか。
石段を上っていく人たちの顔は、観光というより参詣に近かった。
紘一は一枚、石段の下からシャッターを切る。
鳥居の向こうに寺の屋根が重なって見える。
それだけで、この島が少しだけ普通じゃない場所に思えた。
石段を上りきると、本堂の前にはすでに列ができていた。
思っていたより人が多い。
参拝を終えた人たちが御朱印をもらう列を作っている。
御朱印帳を手にした人たちが順番を待っている。
書き手の僧侶が忙しそうに筆を走らせている。
それを横目に紘一は本堂へと向かった。
墨の匂いが、線香の煙に混じって漂ってくる。
紘一はカメラを下ろした。
本堂を撮るつもりだったが、先に参拝を済ませている人が多い。
少しすればここも空く。
ゆっくりとしようなどと思っている人は…呆れるくらい少ない。
写真を撮る前に、自分も並ぶことにした。
こういう場所では、その方が角が立たないというよりは邪魔が少なくて済む。
仕事柄、土地の空気に逆らわない癖がある。
賽銭用の財布を取り出す。
誰かに説明されて、自分なりに妙にしっくりきたので続けていることがある。
紘一は財布から、5円、10円、100円を取り出した。
どの硬貨も軽く磨いてある。
以前、葉月に『神様相手に汚い金を投げるな』と笑われたことがあった。
金銀銅貨を入れるのがいい。
そう聞いた時は半信半疑だったが、何となくなるほどと思った。
ただ時代が変わっていく中で貨幣価値が変わっているからそこは…
賽銭箱に5円玉を落としながら、紘一はふと思う。
カラカラと転がっていく音を聞きながら『ご縁がありますように』と。
そんな駄洒落で5円を投げる習慣は、案外新しいものらしい。
昔の5円は、いまみたいな気軽な小銭ではなかった。
それなりの価値があったはずだ。
つまり昔の人は、本当に何かを願って金を置いた。
その習慣のまま、気軽に財布から出せるようになった。
そこには洒落的な気持ちも半分は混ざっているのかもしれない。
鈍い音を立てて賽銭箱に落ちた硬貨を見て、紘一は苦笑した。
「神様もインフレには勝てないか」
柏手を打つ。
拝礼をする。
信じていないと口にする割にはきちんとする。
『出来すぎよね……』
「えっ」
紘一は周りをキョロキョロと見渡す。
願い事なんて…特にない。というよりも考えていない。
確か葉月が『必要なのは挨拶とお礼』と言っていたっけ。
竹生島の記事が無事まとまればそれで十分だ。
心の中でつぶやくことにする。
『こんにちは、ありがとうございます、よろしくです』
『…名乗りなさいよ』
「えっ?」
きょろきょろとする紘一は明らかに不審人物だ。
自分で自覚できるくらい、周囲の視線が突き刺さってくる。
…まずったな…
そう思った、その瞬間だった。
風が吹いた。
本堂の奥。
閉じられていたはずの御簾が、ふわりと持ち上がる。
誰かが立っている気がした。
白い装束。
長い髪。
だが、次に目を開けた時には何もいない。
背後で、誰かが鈴を鳴らした。
それだけだった。
「……気のせいか。あ、鳴海 紘一」
自分の口から出た言葉に、紘一は一瞬遅れて眉をひそめた。
さっきまで賽銭を投げた指先だけが、妙に冷たかった。
紘一はそう呟いたが、手のひらにはなぜか冷たい汗が滲んでいた。
お読みいただきありがとうございます。
基本的に 不定期更新の のんびり進んでいきます。
ご意見、ご要望あればうれしいです。
アイデアは随時…物語に加えていければと考えています。
今回、チャレンジ企画に挑戦!です
よろしければお付き合い願えればと思います




