第9話 昨夜は何が… 島に渡っていいですか?
カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。
朝の光に起こされるのはいつぶりだろう。
別に自室にいるときくらい気にしなくてもいいのに…
そんなことを思いながらも仕事柄だろうか…
カーテンは厚手のものを選んでしまう。
紘一は薄く目を開ける。
………
見慣れない天井。
数秒遅れて昨夜の記憶が戻ってくる。
「……ぁ、なるほど…」
小さく息を吐いた。
ベッドの上では志乃が毛布に包まったまま眠っている。
黒髪が白いシーツへ広がっていた。
満足そうな笑みで、ピタリと肌を寄せてくれている。
どうやら昨夜、あのまま泊まったらしい。
記憶ははっきりしている。
ただ、どこから眠ってしまったのかだけ曖昧だった。
服に皺が寄らないように…そんな話をした。
そして、薄明りの中で…
そのまま寝落ちしたらしい。
紘一は苦笑する。
そっとベッドを降りる。
脱ぎ散らかした服を軽くたたんで机の上に。
服を整えて、ため息を吐いてからスマホを手に取る。
0520…
普段よりも早起きだ。
普段よりも早寝をした自覚もある。
ただ、少し背中が痛い。
「志乃さん?」
一応声をかけてみる。
んっんん…と手を弾かれる。
「もう少し寝かせてね」
大人びた話し方から無邪気な少女のような言葉遣いに変わる。
気が付けばふっと笑みがこぼれた。
ベッドサイドのメモ帳を手に取り少し思案する。
――おはよう
ごちそうさまでした
よければ連絡先送って
写真送るから――
竹生島行きの始発便には、まだ余裕があった。
静かな部屋だった。
昨夜のバーよりも静かで、むしろ現実感が薄い。
テーブルの上の飲みかけのミネラルウォーターの蓋を確認してポケットに。
(さて…行きますか…)
伸びをしながらもう一度、志乃の顔を見てからカメラバックを手に取った。
…ん?
ビジネスホテルの簡素なデスクの上の開かれたままの本が目に入った。
志乃と澪は仕事で来ていると言っていた。
週末の研修会ということで今日は有休を与えられたらしい。
せっかくなので観光をしてから帰る予定だと話していた。
ただ澪の方は朝から恋人が出てきてからデートをするので別行動らしいが…
しっかりと研修のレポートは書き上げられている。
資料もまとめて片付けてある。
その横の開かれたままの本。だから目についたのかもしれない。
見るつもりはなかった。
謡曲集『竹生島』の栞が挟まったページが開きっぱなしになっている。
古びた活字に、太字でこうあった。
【 湖上の島にて老翁と女神現れ、
女は弁才天、老翁は龍神の化身なり。
龍神は波間より姿を現し、宝珠を捧げて舞う。】
……奉納舞?
竹生島。
何の縁があるのやら…
紘一はそう思いながら本から手を離した。
(これ…)
栞に貼られている付箋に気が付いた。
走り書きだった。
黒龍堂。
紘一は小さく欠伸をして鞄を肩に掛けなおした。
メモをテーブルの上に移してから一歩進んでみる。
寝顔をもう一度だけ見る。
昨夜より少し幼く見えた。
「……じゃ」
誰に聞かせるでもなく呟いて、紘一は静かに部屋を出た。
廊下には朝の冷たい空気が流れていた。
ホテルを出ると、長浜の朝はまだ眠りきっていた。
金曜の朝、観光客もそれほどいないだろう。
駅前のロータリーにはタクシーが一台だけ停まっている。
運転手が窓を開けてあくびをしながら新聞を読んでいる。
平和な一幕になんとなくホッとしてしまう。
その光景も写真に落としておく。
昨夜の灯りが、賑わいが、嘘みたいに静かだった。
多くの町で見られる町の寝ぼけた時間だ。
視線を空に向けると、少し曇っているようだ。
港へ向かう道すがら、紘一は何度か足を止めた。
通りに面した古い町家の軒先。
まだ閉まったままの黒壁の店先。
夜には人影を映していた水路も、朝の光の下ではただ澄んだ水を流しているだけだった。
カメラを構える。
ファインダー越しに見る町は、昨夜よりもずっと普通だ。
でも朝の光が、夜露が別の化粧を施している。
その違いがうれしい。
怪しいものなんて何もない。
黒い影も、
川向こうの誰かも、全部…酒のせいだった。
飲みすぎていたのだろう。
シャッターを切るたびに感覚がクリヤされていく気がする。
その瞬間、ふと視界の端を黒い服が横切った気がした。
反射的に顔を上げる。
だが通りには、新聞配達の原付が走り去る音しか残っていなかった。
「…気にしすぎか」
独りごちて、カメラを肩に戻す。
そのまま港へ向かった。
長浜港に着いた頃には、朝の光が湖面に薄く広がっていた。
まだ乗船券売場は閉まっている。
紘一は車へと乗りこみ、とりあえず着替えを済ませる。
トイレはありがたいことに隣にある。
朝の支度を終えて車を出るとすでに何台もの車が駐車し始めていた。
何も朝一で渡らなくてもいいのに、と思いながら乗船券売り場へと向かう。
「おはよう。よく眠れたかい?」
昨日、丁寧に相手をしてくれた係員が声をかけてくれる。
「おかげさまで」と返して白い建物へと入った。
乗船券売り場の建物は、思っていたよりずっと小さかった。
観光港というより、地方の駅舎に近い雰囲気だ。
ガラス張りの自動ドアを抜けると、少しひんやりした空気が流れていた。
朝だからなのか、それとも湖に面しているせいか、外よりも空気が湿っている。
正面に窓口がひとつ。
『竹生島行き』
『往復券はこちら』
『本日の運航状況』
どれも観光地らしい整った案内なのに、どこか昔のまま、と感じてしまう。
観光シーズンならもっと混み合うのだろう。
平日の朝で人影がまばらだ。
ただそれが観光地としての人気を伺わせた。
何人か並んでいる列に並びながら視線を泳がせる。
出入り口付近の棚にいろいろなパンフレットが置かれている。
竹生島。
長浜城。
黒壁スクエア。
そして琵琶湖周辺の温泉案内。
どれも同じような青い湖面の写真が使われていて、並べて見ると少し不思議だった。
同じ湖を写しているはずなのに、一枚ごとに色が違う気がする。
文字書きが本職、映像的なことはよくわからないが何となく引っかかった。
そうこうしている内に順番が訪れる。
「竹生島往復ですか?」
その言葉に、一瞬だけ答えに詰まる。
往復。
当たり前の確認なのに、なぜか引っかかる。
帰ってくる前提の言葉だからだろうか。
「…はい、往復で」
自分でも少し遅れてそう答えた。
紙の乗船券を受け取る。
薄い感熱紙に印字された時刻。
それをポケットにしまった時、桟橋の先で風が吹いた。
湖面に白い波紋が広がった気がした。
その向こう。
霞んだ水面の奥に、白い影が立っているように見えた。
人影ではない。
鳥でもない。
目を凝らした瞬間、ただの波間に変わっていた。
紘一は苦笑してカメラを持ち直す。
「旅先ってのは、気分まで演出してくるんだな」
出航まではまだ二十分ほどある。
長椅子に腰を下ろす客たちは、それぞれ静かだった。
スマホを見ている若いカップル。
地図を広げた老夫婦。
誰も大きな声を出さない。
それは待合所が静かだからではなく…
窓の向こうに広がる湖がそうさせているように思えた。
大きな窓ガラスの外に、白い船体が揺れている。
そのさらに向こうには、白く霞んだ水面。
対岸も島も見えない。
ただ湖だけがある。
紘一はカメラバッグを足元に置き、パンフレットの束に手を伸ばした。
その隙間に、一冊だけ観光冊子とは違う古びた本が差し込まれている。
背表紙には墨色で書かれていた。
『謡曲 竹生島』
…また…溜息が一つこぼれる。
紘一は船乗り場へとでた。
観光船乗り場には、すでに数人の客が並んでいた。
年配の夫婦。
カメラを提げた一人旅らしい男。
それから、団体客らしい数人組。
そして…琵琶湖。
昨夜は暗くてよく見ていなかった。
岸壁の先に広がる琵琶湖は思っていたよりずっと大きいと感じてしまう。
対岸は霞んでいて、海と言われても信じてしまいそうだった。
乗船開始まで10分強ある。
その時間を使って、紘一は岸壁の端へ歩いた。
桟橋の先でカメラを構える。
朝の湖は静かだった。
風も弱く、水面は鉛色に平たく広がっている。
その向こう側に行くべき島がある。
竹生島のフライヤーを手にとり、位置関係を何となく確認する。
不思議と一点を見つめてしまう。
そこに…湖の真ん中にぽつりと浮かぶ島がある。
見えてもいないのに、その確信があった。
そこは、観光地というより、何か別のものに見える。
神域。
そんな言葉が似合ってしまう。
シャッターを切る。
その瞬間だった。
背後で、カラン、と何か硬いものが転がる音がした。
振り返る。
誰もいない。
ベンチの下に、黒い小石が一つ転がっているだけだった。
お読みいただきありがとうございます。
基本的に 不定期更新の のんびり進んでいきます。
ご意見、ご要望あればうれしいです。
アイデアは随時…物語に加えていければと考えています。
今回、チャレンジ企画に挑戦!です
よろしければお付き合い願えればと思います




