第一話 最後の夜会
「妻には感謝している。だが——私は、真の伴侶を見つけた」
千人を呑み込む春の大広間が、しんと鎮まった。
シャンデリアの光だけが、何事もなかったかのように降り続けている。
私は最前列で、いつもの笑みを保ったまま夫の声を聞いた。
ああ、と思った。
ようやく、と思った。
◇
夜会の三日前、私は屋敷の執務室に籠もっていた。
招待状の差配。料理人との打ち合わせ。各国大使の宗教的禁忌の確認。席次表。それから、レオポルトの就任演説の原稿。
全部、私の仕事だった。十年、ずっとそうだった。
「奥様、もう深夜でございますよ」
侍女のマルゴが薄い肩掛けをそっと私の背に載せた。
「旦那様は、奥様がここまでなさっていることをご存知なのでしょうか」
「知らないでしょうね」
私はペンを止めずに答えた。
「でも、それでいいのよ。社交界で目立つのは男のお仕事ですもの」
——本当は、知ってほしかったけれど。
ペン先が紙の上で一瞬だけ滲んだ。
◇
宰相補佐就任の披露宴は、王宮の春の大広間で開かれた。
扉が開いた瞬間、私は会場を一度で見渡した。
東の壁際、第三大公の従兄弟。先月、息子の縁談で借りを作っている。
中央の柱の陰、北方の辺境伯夫人アデルハイト。秋の収穫祭に呼んでくれた礼がまだ済んでいない。
楽団の指揮者の右、隣国レーヴェンシュタイン公国の大使——名前はアシェンバッハ公爵。お初にお目にかかる方。長身の、影のように静かな男だった。
頭の中の帳簿が勝手に開いて勝手に閉じた。
これは病気のようなものだ。十年やっていれば、誰だってこうなる。
レオポルトが壇上に立った。
私の書いた原稿で、よく通る声が会場を包む。歓声。拍手。喝采。
——この声は本物。
あの人の声と笑顔だけは本物だった。中身は全部私が書いていたとしても。
私は最前列で微笑んだ。
微笑みなさい、と亡き母の声が遠くで響く。品位を保つことが貴女自身を守るのよ、と。
そして、演説の終わりだった。
「最後に——私事ながら、皆様にご紹介したい方がいる」
レオポルトの声が急に温度を変えた。
彼が手を差し伸べた先、若い令嬢が頬を染めて壇上に上がってきた。
ロート男爵家のミネルヴァ嬢。私は当然、名前も顔も知っている。半年前から夫の執務室に頻繁に出入りしていた方。
「妻には、感謝している」
レオポルトは私の方を見ずに続けた。
「十年、家のことを支えてくれた。だが——私は、真の伴侶を見つけた」
◇
時間が止まった。
千人の視線が一斉にこちらを向いたのを、私は皮膚で感じた。
誰かが息を呑んだ。誰かが扇で口を覆った。
楽団は演奏を続けるべきか迷い、指揮者の手が中途半端に宙で止まっている。
——ああ。
私はゆっくり立ち上がった。
スカートの裾をいつもどおり整える。
「君は自由になっていい。君も、新しい伴侶を見つけたまえ」
壇上からレオポルトが微笑みかけてくる。
彼は今、自分が王のように寛大に見えていると信じている。それが顔の筋肉の置き方でわかる。
私は微笑んだまま、絨毯の中央を歩いた。
一歩。
二歩。
スカートの衣擦れだけが、千の沈黙の中で響いている。
私が階段を上り切ると、レオポルトは少し戸惑った顔をした。「どうした」と問いたげな、間の抜けた表情だった。
ミネルヴァ嬢が半歩、後ずさる。
私は脇に控えた家令のオットーに目で合図を送った。
彼が両手で分厚い書類束を運んでくる。
十年分の招待状リスト。負債帳。各国大使の宗教的禁忌の覚え書き。料理人との取り決め。
重ねれば、人の胸の高さほどになる。
私はそれを夫の腕にそっと預けた。
「どうぞ、ご存分に」
レオポルトの腕が、書類の重さでわずかに沈んだ。
彼の顔から寛大な王の表情がすうっと抜けた。
私はもう一度、品よく一礼した。
壇上のミネルヴァ嬢にも、同じ深さの礼をした。
——これからは貴女のお仕事ですわね。
口にはしない。目だけで伝える。
そして、来た道をそのまま戻った。
◇
会場を抜けるまでの間、私は何度か立ち話の輪を縫って通った。
すれ違いざま、北方の辺境伯夫人アデルハイトの袖に指先が一瞬触れた。
「明日のお茶会の席次、間違えないでくださいね」
私は微笑んでそう囁いた。
夫人がはっと顔を上げた。
彼女の目に、驚愕と——理解の色が同時に灯った。
彼女もまた十年、私に借りを積んできた一人だった。
それで十分だった。
◇
大広間の扉が、私の後ろで静かに閉じる。
廊下の冷えた空気が頬に触れた。
シャンデリアの光が消え、自分の靴音だけが響き出す。
歩きながら、私は気づいた。
——ああ。
頬が笑ったままだ。
十年貼りつけた笑みが、外し方を忘れていた。
私は廊下の隅で立ち止まり、片手で頬を上から下へゆっくり撫でた。
ようやく口の端が下りた。
その時だった。
廊下の向こうの柱の陰に、長身の影が立っていた。
レーヴェンシュタイン公国の大使。
彼は私と目が合うと、一礼した。会場で見たどの顔よりも丁寧で、どの顔よりも——何かを堪えているような礼だった。
私は会釈を返し、そのまま衛兵の控え室へ向かった。
(……あの方、なぜあんな顔で私を見たのかしら)
馬車を呼ぶ声が、自分のものとは思えないほど落ち着いていた。
◇
その夜、私はベッドに入る前に、私室の書き物机のいちばん下の引き出しを開けた。
引き出しの奥には、首から下げた小さな鍵で開ける隠し金庫がある。
私は鍵を首から外し、金庫を開けた。
中には、十年分の負債帳の本物が整然と並んでいた。
夫に渡したのは装丁された外側の表紙だけ。中身は白紙のまま、今ごろ彼の腕の中にある。
私は金庫を閉め、鍵を首に戻した。
蝋燭を吹き消す。
闇の中で、自分の鼓動が随分と静かなのに気づいた。
十年、こんなに静かな夜はなかった気がする。
翌朝、何が起きるか、私はおぼろげに想像できた。
だが、それを見届ける人間は、もうこの屋敷にはいない。
私は目を閉じた。
——おやすみなさい、ケーニッヒスベルク家。
知らない国の大使のあの一礼の意味をぼんやり思い出しながら、私は十年ぶりに深く眠った。




