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夫の出世のために十年間笑顔で社交界を回した妻の、最後の夜会  作者: 九葉(くずは)


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第一話 最後の夜会

「妻には感謝している。だが——私は、真の伴侶を見つけた」


千人を呑み込む春の大広間が、しんと鎮まった。

シャンデリアの光だけが、何事もなかったかのように降り続けている。


私は最前列で、いつもの笑みを保ったまま夫の声を聞いた。


ああ、と思った。

ようやく、と思った。



夜会の三日前、私は屋敷の執務室に籠もっていた。


招待状の差配。料理人との打ち合わせ。各国大使の宗教的禁忌の確認。席次表。それから、レオポルトの就任演説の原稿。

全部、私の仕事だった。十年、ずっとそうだった。


「奥様、もう深夜でございますよ」

侍女のマルゴが薄い肩掛けをそっと私の背に載せた。

「旦那様は、奥様がここまでなさっていることをご存知なのでしょうか」

「知らないでしょうね」

私はペンを止めずに答えた。

「でも、それでいいのよ。社交界で目立つのは男のお仕事ですもの」


——本当は、知ってほしかったけれど。


ペン先が紙の上で一瞬だけ滲んだ。



宰相補佐就任の披露宴は、王宮の春の大広間で開かれた。


扉が開いた瞬間、私は会場を一度で見渡した。

東の壁際、第三大公の従兄弟。先月、息子の縁談で借りを作っている。

中央の柱の陰、北方の辺境伯夫人アデルハイト。秋の収穫祭に呼んでくれた礼がまだ済んでいない。

楽団の指揮者の右、隣国レーヴェンシュタイン公国の大使——名前はアシェンバッハ公爵。お初にお目にかかる方。長身の、影のように静かな男だった。


頭の中の帳簿が勝手に開いて勝手に閉じた。

これは病気のようなものだ。十年やっていれば、誰だってこうなる。


レオポルトが壇上に立った。

私の書いた原稿で、よく通る声が会場を包む。歓声。拍手。喝采。


——この声は本物。

あの人の声と笑顔だけは本物だった。中身は全部私が書いていたとしても。


私は最前列で微笑んだ。

微笑みなさい、と亡き母の声が遠くで響く。品位を保つことが貴女自身を守るのよ、と。


そして、演説の終わりだった。


「最後に——私事ながら、皆様にご紹介したい方がいる」


レオポルトの声が急に温度を変えた。

彼が手を差し伸べた先、若い令嬢が頬を染めて壇上に上がってきた。

ロート男爵家のミネルヴァ嬢。私は当然、名前も顔も知っている。半年前から夫の執務室に頻繁に出入りしていた方。


「妻には、感謝している」

レオポルトは私の方を見ずに続けた。

「十年、家のことを支えてくれた。だが——私は、真の伴侶を見つけた」



時間が止まった。


千人の視線が一斉にこちらを向いたのを、私は皮膚で感じた。

誰かが息を呑んだ。誰かが扇で口を覆った。

楽団は演奏を続けるべきか迷い、指揮者の手が中途半端に宙で止まっている。


——ああ。


私はゆっくり立ち上がった。

スカートの裾をいつもどおり整える。


「君は自由になっていい。君も、新しい伴侶を見つけたまえ」

壇上からレオポルトが微笑みかけてくる。

彼は今、自分が王のように寛大に見えていると信じている。それが顔の筋肉の置き方でわかる。


私は微笑んだまま、絨毯の中央を歩いた。

一歩。

二歩。

スカートの衣擦れだけが、千の沈黙の中で響いている。


私が階段を上り切ると、レオポルトは少し戸惑った顔をした。「どうした」と問いたげな、間の抜けた表情だった。

ミネルヴァ嬢が半歩、後ずさる。


私は脇に控えた家令のオットーに目で合図を送った。

彼が両手で分厚い書類束を運んでくる。


十年分の招待状リスト。負債帳。各国大使の宗教的禁忌の覚え書き。料理人との取り決め。

重ねれば、人の胸の高さほどになる。


私はそれを夫の腕にそっと預けた。


「どうぞ、ご存分に」


レオポルトの腕が、書類の重さでわずかに沈んだ。

彼の顔から寛大な王の表情がすうっと抜けた。


私はもう一度、品よく一礼した。

壇上のミネルヴァ嬢にも、同じ深さの礼をした。

——これからは貴女のお仕事ですわね。

口にはしない。目だけで伝える。


そして、来た道をそのまま戻った。



会場を抜けるまでの間、私は何度か立ち話の輪を縫って通った。


すれ違いざま、北方の辺境伯夫人アデルハイトの袖に指先が一瞬触れた。

「明日のお茶会の席次、間違えないでくださいね」

私は微笑んでそう囁いた。


夫人がはっと顔を上げた。

彼女の目に、驚愕と——理解の色が同時に灯った。

彼女もまた十年、私に借りを積んできた一人だった。


それで十分だった。



大広間の扉が、私の後ろで静かに閉じる。


廊下の冷えた空気が頬に触れた。

シャンデリアの光が消え、自分の靴音だけが響き出す。

歩きながら、私は気づいた。


——ああ。

頬が笑ったままだ。


十年貼りつけた笑みが、外し方を忘れていた。

私は廊下の隅で立ち止まり、片手で頬を上から下へゆっくり撫でた。

ようやく口の端が下りた。


その時だった。

廊下の向こうの柱の陰に、長身の影が立っていた。


レーヴェンシュタイン公国の大使。

彼は私と目が合うと、一礼した。会場で見たどの顔よりも丁寧で、どの顔よりも——何かを堪えているような礼だった。


私は会釈を返し、そのまま衛兵の控え室へ向かった。


(……あの方、なぜあんな顔で私を見たのかしら)


馬車を呼ぶ声が、自分のものとは思えないほど落ち着いていた。



その夜、私はベッドに入る前に、私室の書き物机のいちばん下の引き出しを開けた。

引き出しの奥には、首から下げた小さな鍵で開ける隠し金庫がある。

私は鍵を首から外し、金庫を開けた。


中には、十年分の負債帳の本物が整然と並んでいた。

夫に渡したのは装丁された外側の表紙だけ。中身は白紙のまま、今ごろ彼の腕の中にある。


私は金庫を閉め、鍵を首に戻した。

蝋燭を吹き消す。


闇の中で、自分の鼓動が随分と静かなのに気づいた。

十年、こんなに静かな夜はなかった気がする。


翌朝、何が起きるか、私はおぼろげに想像できた。

だが、それを見届ける人間は、もうこの屋敷にはいない。


私は目を閉じた。


——おやすみなさい、ケーニッヒスベルク家。


知らない国の大使のあの一礼の意味をぼんやり思い出しながら、私は十年ぶりに深く眠った。

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