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真夏のカリステギア  作者: 伽耶


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第二十一話:さく月は誰かのために

散歩に行くと言っていた彼は、疲れた様子なんて少しも見せず、勉強道具を手際よく片付けて玄関へ向かっていった。


それが、彼にとっての普通なんだろう。


私は違う。


その場で力が抜けるように畳へ仰向けになった。


「行儀悪いわよ」

もし菖蒲さんに見られたら、きっと笑いながら注意される。


でも、今は起き上がる気力もなかった。


頭は重い。


肩はじんじん痛い。


鉛でも背負っているみたいだった。


今すぐ布団にもぐって眠りたい。


鼻をくすぐる畳の匂いをゆっくり吸い込む。


その青い匂いだけが、少しだけ熱くなった頭を冷ましてくれた。


たった数時間。


それだけなのに、何日分も勉強した気がする。


しばらく学校へ行っていない私が、慣れていないだけなのかもしれない。


それでも、少し悔しかった。


最後まで疲れた様子ひとつ見せなかった彼に、負けた気がした。


机には、解き終えたプリントが無造作に積まれている。


分数も小数も九九も。


どれも私を散々苦しめた問題ばかりだった。


何度も戻って、また進む。


できるようになるまで繰り返す。


反復練習なんて言葉を、今日だけで一生分聞いた気がする。


途中からは、「おさらい」という言葉を聞くだけで身構えてしまった。


本来なら、小学生で終わっているはずの問題だ。


そんなところでつまずいている私は、きっと恥ずかしいんだろう。


そう思う。


でも、その考えは最後まで私を責めもせず、見下しもせず、根気よく向き合ってくれた彼に失礼だとも思った。


授業で一人だけ取り残される。


みんなが先へ進んでいく。


分からないところで手を挙げれば、授業が止まる。


教室の空気が少しだけ変わる。


その空気を、私は知っている。


小学校でも、中学校でも。


分からないと何度も言い続けるのは、思っているより疲れる。


先生だって忙しい。


最初はみんな一生懸命に教えてくれる。


でも、そのうち、


「ここをもう一回読んでみようか」


「もう少し頑張ってみよう」


そんな言葉が増えていく。


責められたわけじゃない。


見捨てられたわけでもない。


ただ――困らせてしまっていたんだと思う。


この家に来てから知った。


菖蒲さんも、竜胆さんも、今まで私が出会ってきた大人たちとは何もかも違っていた。


困ったときは隣にいてくれる。


ちゃんと時間を作ってくれる。


心配してくれる。


簡単に諦めない。


無理やり何かを押しつけたりもしない。


そして、私が言葉にできないことにも気づいてくれる。


そんな二人だからこそ、余計に苦しかった。


竜胆さんは、この町じゃ有名な人だ。


背広姿の大人が毎日のように家を訪ねてくる。


菖蒲さんだって、家事だけじゃない。


地域の集まりやボランティアで、朝から晩まで動き回っている。


忙しいことくらい、見ていれば分かる。


そんな二人の時間を、私は奪っている。


そう思うたびに、申し訳なさが膨らんでいった。


焦る。


頑張る。


分からなくなる。


また焦る。


ずっと、その繰り返しだった。


たぶん、空回りしていたんだと思う。


でも、彼は違った。


最初に方程式を数問解かせただけで、私が途中で止まる理由に気づいてしまった。


無理に先へ進ませることはしなかった。


「一回戻ろう」


そう言って、小学生の算数まで戻った。


算数を教えて、なんて自分から言えない。

そんなの恥ずかしい。


私に残っていた壁みたいなくだらないプライドもやすやすと飛び越えていった。


正直、恥ずかしかった。


でも、彼はそんなことを気にする様子もなく、

「ここが分かれば、この先も楽になる」


当たり前みたいに慣れたようにそう言った。


計算は口頭で。


途中式は必要なところだけ。


間違えた問題は、どうしてそう考えたのかを先に聞く。


正解した問題も、大げさには褒めない。


「できたじゃん」


「あってる」


それだけ。


その何気ない一言が、不思議なくらい心地よかった。


できなかった私じゃなくて、


できるようになった私を見てくれている気がした。


間違えても呆れない。


できないことを笑ったりしない。


普通、もっと嫌そうな顔をする。


面倒そうにする。


今までの大人たちはそうだった。


そのまま早足で部屋へ戻った。


窓を少しだけ開ける。


夕方の熱気は少し落ち着いていて、田んぼを渡る風がカーテンをゆっくり揺らした。


ぼんやりと外を眺める。


別に、なんでもない。


ただ、なんとなく。


その景色にこれから散歩に行く彼が、映っただけだ。


鉛のように重くなった頭を夜の空気が冷やしていく。


西の空からも太陽の姿が消えていき橙色が少しずつ黒く染まっていく。


昼間に鳴いていた山鳩の声はいつの間にか(カラス)の鳴き声に変わっていた。


遠くでひぐらしの声だけが残る。


もうそろそろ帰ってきてもいい時間だった。


そう思った。


門の向こうに人影が見えた。


彼だ。


……走っている。


違う。


足がもつれて逃げているみたいだった。


玄関を勢いよく開ける音がここまで聞こえる。


そのまま家の中へ飛び込んでいった。


階段を駆け上がる音。


一段飛ばしみたいな、乱れた足音。


私は思わず部屋の閉まっている入り口を見る。


姿は見えないのに乱暴に部屋に入っていくのがわかった。


朝も。


昼も。


今日一日ずっと見ていた。


疲れていても、どこか落ち着いていた。


なのに今は違う。


何かから逃げるみたいに帰ってきた。


……何があったんだろう。


胸の奥が少しだけざわつく。


気になっている。


そう認めるのは癪だった。


でも。


同じだったから。


あの人の目も。


私の目も。


何かを思い出したときだけ、あんな色になる。


窓ガラスに映った自分の顔を見る。


濁った瞳が、そこにあった。

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