第二十二話:夜光を探すように
暗くなった部屋で、布団に身体を丸める。
薄いレースのカーテン越しに、庭の灯籠の明かりだけがぼんやりと揺れていた。
目を開ける。
天井は見えているのに、焦点が合わない。
額の奥で鈍い痛みがじりじりと広がっていく。
喉の奥には、どうしようもない吐き気が張りついていた。
胃の中がゆっくりとかき回されるようで、息をするだけでも気持ちが悪い。
台所から、何度か呼ぶ声が聞こえた気がした。
「和ちゃーん」
菖蒲さんの声だったと思う。
返事をしようと口を開く。
でも、声にならない。
しばらくすると、廊下をパタパタと歩く音が近づいてきた。
階段を上がり、部屋の前で足音が止まる。
「和ちゃん? 大丈夫?」
ドア越しの優しい声。
少しだけ息を整えて、絞り出すように答えた。
「……今日は、食欲ない」
自分でも驚くくらい小さな声だった。
ちゃんと聞こえただろうか。
少しだけ沈黙があって、
「そう……。無理しなくていいからね」
菖蒲さんはそれだけ言った。
無理に部屋へ入ってくることも、食べろと勧めることもなかった。
足音が少しずつ遠ざかっていく。
静けさだけが部屋に戻ってきた。
その静けさが、今はありがたかった。
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少し眠っていたらしい。
どれくらい時間が経ったのかは分からない。
夕飯は食べていない。
それでも不思議と空腹は感じなかった。
眠る前まで額の奥を締めつけていた頭痛も、喉の奥に張りついていた吐き気も、いつの間にか治まっている。
ゆっくりと身体を起こし、大きく息を吸った。
少しだけ、呼吸が楽になっていた。
(……悪いことしたな)
頭に浮かんだのは、自分のことじゃない。
じいちゃんと菖蒲さんの顔だった。
せっかく迎えてくれたのに、夕飯も食べず部屋へ籠もってしまった。
きっと心配をかけただろう。
明日、ちゃんと謝ろう。
そう思いながら窓際へ歩く。
薄いカーテンを少しだけ開けると、庭はもう静まり返っていた。
灯籠の明かりも消え、屋敷全体が深い眠りについている。
もう日付は変わっているのかもしれない。
時計のない部屋には答えはなかった。
ただただ、静かな月のない夜だった。
その代わり、夜空には無数の星が瞬いている。
たぶん、あれが夏の大三角なんだろう。
昼間は見えなかった光が、夜になってようやく姿を現す。
少しだけ傾いて見えてしまったのは残念だ。
ぼんやりとそんなことを考えていると、
――コン、コン。
小さな音が部屋に響いた。
控えめなノックだった。
「……起きてる?」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、真夏の声だった。
「うん、起きてる」
そう返すと、少しだけ間が空く。
「……入らないから」
小さく前置きをしてから、
「今日、その……勉強」
言葉が途切れる。
何度も言い直そうとしているのが分かった。
「……ありがとう」
ようやく聞こえたその一言は、消えてしまいそうなくらい小さかった。
思わず笑ってしまう。
「どういたしまして」
そう返すと、襖の向こうが静かになった。
しばらくして、
「……おやすみ」
照れ隠しみたいな声だけを残して、足音が少しずつ遠ざかっていく。
廊下はまた静かになった。
夜はまだ深い。
それでもさっきまでより、少しだけ部屋が明るくなった気がした。
「……寝るか」
明日も真夏の勉強を見るつもりだ。
寝不足のまま、一生懸命頑張る彼女に向き合うのは失礼な気がした。
たぶん、彼女はそんな事考えないだろうが納得できる自分でありたいと思った。
布団を頭まで引き寄せ、そっと目を閉じる。
眠ろうとする。
けれど、眠れない。
部屋には音が鳴るものはない。
電化製品のコンセントは全て抜いてあり、時計の秒針も気になったときに撤去している。
静かな部屋ほど、頭の中だけが騒がしくなる。
静かな虫の声も蛙の合唱もやけに耳に残って眠れなかった。
昔から寝付きは良くなかった。
それでも、この一年はひどい。
目を閉じれば考えごとが始まり、
考えごとが終わる頃には、外が白み始めている。
そんな夜を何度も繰り返してきた。
それがなかったらこんな性格にはなってない。
眠れないから考えるのか。
考えるから眠れないのか。
もう、自分でも分からない。
「……はぁ」
小さく息を吐き、諦めてもう一度カーテンを開けた。
夜空は相変わらず澄んでいた。
月はない。
そのぶん、星だけが驚くほど鮮明だった。
南の空に、顔を出した赤く瞬く一つの星が目に留まる。
アンタレス。
さそり座の心臓と呼ばれる星。
夏の星座の中でもひときわ存在感があって、子どもの頃はよく探したものだ。
暗いからこそ見える光がある。
そんな当たり前のことを思い出して、小さく笑う。
「……おやすみ」
誰に向けた言葉でもない。
静かな夜だけが、それを聞いていた。




