第十九話:日はしずみ、月はさく
昨日とは違って、空はちゃんと夕方だった。
西の空は橙色に染まって、 足元には長い影が伸びている。
雨の気配はない。
稲の間を抜けてきた風が頬を撫でた。
少し冷たい。
昨日みたいに空を覆う入道雲も今日は見当たらない。
代わりに、高いところを細い飛行機雲がゆっくり流れていた。
ポケットからラムネを取り出す。
カラカラ、と乾いた音。
真夏との勉強中に食べようと思って持って出た残りだった。
昔から勉強するときは何か口に入れる癖がある。
飴玉やガム、最近はグミが多かった。
集中するためなのか、 落ち着くためなのか。
自分でもよく分からない。
一粒、口に入れる。
噛む。
ラムネ独特の甘さが広がる。
もう一粒。
今度は噛まずに転がした。
ゆっくり溶けていく。
少しだけ、 額の奥に残っていた重さが薄れていく気がした。
田んぼ道をなんとなく歩く。
いつの間にかアスファルトは消えていて、 湿った畦道を踏んでいた。
水の音がする。
そういえば夕方は田んぼの水を入れ替えるって誰かが言っていた気がする。
遠くで軽トラックの音。
蛙の声。
どこかの家から夕飯の匂い。
たぶん魚を焼いている。
田舎の風景って、こういうものなんだろう。
三十分も歩いていない。
なのに、不思議と帰りたくなった。
足はもう、 梧桐邸に向いていた。
その時だった。
「おーい!」
大きな男の声。
反射的に振り返る。
さっきから誰ともとすれ違っていない。
ジャージ姿の男子が自転車で近づいてきていた。
前カゴにはバッシュが雑に突っ込まれていて、エナメルバッグを肩から斜めに掛けている。
少なくとも知り合いではない。
短く切った黒髪をワックスで立たせて、日に焼けた顔で笑っていた。
変に人懐っこい笑い方だった。
ゴールデンレトリバーみたいだと思う。
自転車を路肩に止めると、そのまま自然に距離を詰めてくる。
「見ない顔だな。観光?」
タメ口でフランクに話しかけてくる。
距離感は近い。
田舎だからなのか、こいつだからなのか分からない。
少し困る。
「いや、昨日引っ越してきた。しばらく世話になる予定」
「あ、マジ?」
目を丸くした。
「もしかして親分の孫?」
心臓が少し跳ねた。
なんで知ってる。
困惑は表情に出てたらしい。
そいつは笑った。
「けっこう噂になってるぞ。転校生来るって。それも親分の孫だって」
……田舎を甘く見てた。
情報伝達が速い。
いや、梧桐竜胆の孫なんて話題になるに決まってるか。
エンタメのない田舎にはうってつけの話題だろう。
「俺、扇朝陽」
親指で自分を指して笑う。
「鷲巣中二年。よろしくな」
少し止まる。
同級生。
しかも一クラスしかない。
つまり、夏休み明けには毎日顔を合わせる。
「俺は悟桐清和……よろしく」
たぶん、ぎこちなく笑ったと思う。
扇は気にした様子もない。
悪意もない。
たまたま見かけたから話しかけただけ。
それだけだ。
……なのに。
眩しかった。
今の俺には、眩しすぎた。
不意に胸の奥がざわつく。
理由は分かっている。
あまりにも心当たりがある。
知っているんだ、
こういう笑い方。
こういう空気。
こういう夏の夕方。
どこかで見た。
思い出したくなかった景色を思い出す。
夕方の風が急に冷たく肌を刺していくのを感じた。
口の中のラムネが妙に甘い。
扇が何か話している。
聞こえない。
「……ごめん」
気づけば言っていた。
「帰る」
「え?」
返事を待たず歩き出す。
扇には悪いことをした。
後ろから声が飛ぶ。
「また学校でなー!」
振り返らない。
振り返れない。
歩く。
少し速くなる。
逃げている。
分かっていた。
門が見えた。
玄関を開ける。
階段を上がる。
部屋に入る。
扉を閉める。
夕日はもう届かない。
静かな部屋だった。
なのに胸の奥だけ、うるさかった。




