第十七話:頼まれごと
わかっていたことだけど、授業の進み方は思ったよりゆっくりだった。
元いた学校が特殊だっただけだ。
頭では理解している。
理解しているけど、時間の流れが少し違う場所に来たような感覚はあった。
真夏が開いている問題集を見る。
一次方程式。
中学一年の履修範囲。
最初は復習かと思った。
でも違う。
問題を解いた余白。
何度も消した跡。
赤ペンで書き直された途中式。
同じ問題を何回も解いた形跡。
これは復習じゃない。
止まってしまった勉強だと思った。
本来なら、中二の今頃は連立方程式に入っていてもおかしくない。
学校から離れていた時間が長かったんだろう。
勉強って、一回置いていかれると戻るのが面倒になる。
知っている。
形は違うけど、今の俺も似たようなものだから。
それに、真夏は新しいことを飲み込むまで時間がかかるタイプなのかもしれない。
苦手意識が先に立つと、余計に手が止まる。
悪循環だ。
「はぁ……」
小さく息が漏れた。
呆れたわけじゃない。
どうしたらいいか分からなかった。
勉強は教えられても、勉強を好きになる方法なん
持ち合わせていない。
ふと視線を感じる。
真夏がちらちらとこっちを見ていた。
目が合う。
逸らされる。
また見る。
……恨めしそうだった。
(まあ、そうなるか)
余裕そうな奴に教わるなんて、面白くない。
昨日の件もある。
俺だって逆なら嫌だ。
頭を掻きながら立ち上がろうとした。
そのとき。
「あら和ちゃん、どこ行くの?」
台所から戻ってきた菖蒲さんが急須を持ったまま首を傾げた。
「いや、勉強の邪魔かなって」
菖蒲さんは少し困ったように笑う。
「それがねぇ……」
慣れた手つきでお茶を淹れて、俺たちの前に置いた。
「今まで真夏ちゃんの勉強、私が見てたんだけど最近ちょっと手が回らなくて」
思えば、朝からずっと動いていた。
炊事、洗濯、買い出し。
畑仕事。
町の集まり。
俺と真夏もいる。
忙しくないわけがない。
「夏休み前に少しでも追いつきたかったんだけどねぇ」
困ったように笑う。
真夏が居心地悪そうに俯いた。
「別に、いいです」
小さい声。
「あとは、一人でやります」
その言い方が少し引っかかった。
遠慮じゃない。
諦めだった。
それも慣れている声だった。
菖蒲さんが言う。
「和ちゃん、もし嫌じゃなかったら少しお願いできない?」
「え……」
真夏を見る。
嫌そうな顔。
困った顔。
断れない顔。
全部わかりやすく出ている。
そして問題集で顔を隠した。
隠れてない。
耳まで赤い。
耳なし芳一なら耳を持っていかれている。
……分かりやすい。
少し考えて、椅子に座り直した。
「じゃあ少しだけ」
真夏が顔を上げる。
「数学だけでいいから、どこまで分かってるか見せて」
「……え?」
「教えるより先に確認したい」
問題集を受け取る。
少しだけ解かせる。
さっきとは違う一次方程式。
途中式で止まる。
移項。
怪しい。
符号。
不安定。
分数。
止まる。
割合。
沈黙。
俺は問題集を閉じた。
真夏の肩がぴくっと揺れる。
怒られると思ったんだろう。
少し考えてから言った。
「……真夏」
「なに」
「一回、戻ろう」
怪訝そうな顔。
問題集をめくる。
方程式。
さらに戻る。
分数。
割合。
小数。
真夏の表情が固まる。
「……小学校のところ、少し抜けてるかも」
沈黙。
まずかったかと思った。
でも続ける。
「悪い意味じゃない」
顔を上げる。
「家建てる時も土台からだろ」
「止まったところから再開した方が早い」
真夏は問題集を見る。
それから小さく言った。
「……やっぱり私って駄目?」
俺は首を振る。
「違う」
少し考える。
「止まってるだけ」
静かになる。
「止まった時間は悪くない」
「また動かせばいい」
しばらく沈黙。
それから俺は続けた。
「数学だけじゃ分かんないしな」
あからさまに真夏が嫌そうな顔をした。
「国語、これは漢字を重点的に」
「え」
「英語、これはbe動詞から」
「待って」
「理科、これはほぼ暗記だな」
「やめて」
「社会、これも暗記だな。とりあえず鎌倉時代までねじ込む」
「鬼……」
思わず笑った。
「そうだな、血も涙もないらしい」
真夏は少しだけ黙って、
「……嫌い」
と言った。
でも昨日みたいな冷たい声じゃなかった。
俺は肩をすくめる。
「安心しろ。教える側とか向いてない」
「じゃあなんでやるの」
その質問だけ少し考える。
答えは出なかった。
だから、
「……暇だから」
そう答えた。
真夏は少しだけ眉を寄せて、
「嘘」
と言った。




