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真夏のカリステギア  作者: 伽耶


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16/23

第十五話:不登校

最後はかなり早足になってしまったが、なんとか七時前には戻ることができた。


昨日の雨を吸い込んだ地面からは、じわじわと湿気が立ち上っている。


夏の日差しに炙られた空気は重く、 歩いているだけで肌にまとわりついた。


正直、不快だ。


門をくぐると、 一通り鍛錬を終えたらしいじいちゃんが首にタオルを掛けて歩いていた。


肩で息をしながら、その背中を追いかける。


「ただいま、じいちゃん」


声をかけると、じいちゃんが振り返った。

「おう、おかえり」


そう言ったあと、


「ずいぶん遅かったな」


少し眉を下げる。


俺にも分かるくらい心配していた顔だった。


なんだか申し訳なくなる。


「少し迷子になっちゃって」


頭を掻きながら苦笑する。


「ごめん」


我ながら格好悪い理由だった。


だけど、心配をかけてまで守るような体裁なんて子どもの俺には持ち合わせていない。


じいちゃんは数秒だけ黙り、


「そうか」


と短く答えた。


それから、

「無事ならええ」


ぽん、と肩を叩く。


その一言だけで十分だった。


「ただいま」


玄関を開けながら口にしたその一言に、少しだけ気恥ずかしさを覚える。


家に帰って「ただいま」を言うなんて、いつ以来だろう。


「和ちゃん、おかえり〜。朝ごはんできてるわよ。手洗いうがいしていらっしゃい」


台所から菖蒲さんの明るい声が飛んでくる。


「はーい」


返事をしながら、履いていたサンダルを端に揃える。


邪魔にならないように靴箱の脇へ寄せてから、洗面台へ向かった。


手を洗い、うがいを済ませて食卓へ向かう。


大きなテーブルにはすでに朝食が並んでいた。


湯気を立てる味噌汁。


炊きたての白米。


焼き鮭。


色鮮やかな夏野菜のサラダ。


その真ん中で、菖蒲さんが笑顔のまま茶碗によそったご飯を並べている。


食卓へ目を向けると、真夏が何かを食い入るように見つめていた。


寝起きなのか、長い黒髪はあちこち跳ねている。

正直、ひどい寝癖だった。


それでも本人は気にする様子もなく、床に広げた問題集へ視線を落としている。


朝食の時間だというのに、ページには赤い書き込みがびっしり並んでいた。


(勉強してたのか)


感心しかけて、

(……ん?)

違和感を覚える。


開かれていたのは数学。


一次方程式。

中学一年の内容だった。


「真夏ちゃん、本当によく勉強するのよ」


俺の視線に気付いたらしい菖蒲さんが、嬉しそうに言った。


「そんなことないです」


真夏は少しだけ気まずそうに問題集を閉じる。


ちょうどその頃、じいちゃんも着替えを済ませて席についた。


「いただきます」

示し合わせたわけでもないのに、四人の声が重なる。


不思議な感覚だった。


慣れないはずなのに。


どこか心地いい。


バター醤油で焼いた鮭をひと口食べる。


香ばしい風味と塩気で、白米がどんどん消えていく。


夏野菜のサラダも、生姜の効いたきゅうりの漬物も驚くほど美味しい。


「美味しい?」

菖蒲さんがこちらを見て微笑む。


「美味しいです。本当に」

自分でも分かるくらい素直な声が出た。


ここ数年で食べた朝食の中で、一番美味しかった。


朝からおかわりしてしまった。


なんとなく恥ずかしくなって食事後の片付けを手伝う。


食器をまとめて台所に持っていく。


俺が食器を運んでいると、真夏はもう問題集を開いていた。


相変わらず一次方程式。


たしか、中学一年のときに習う範囲だったはずだ。


ページの端には何度も間違え正解が書き加えられている。


ふと目に入った式を見て、思わず足が止まった。


「そこ」


真夏が顔を上げる。


「その移項、符号逆になってる」


「……え?」


問題集を覗き込む。


案の定だった。


「だから答えが合わない」


真夏は数秒黙り込む。

それから、


「……本当だ」


小さく呟いた。


ここで菖蒲さん。


「あら、和ちゃん分かるの?」


「いや、前にやった範囲だし」



「真夏ちゃんね、学校お休みしてたから大変なのよ」


そう言えば、今日は平日だし普通の公立中学は夏休み前のハズだ。


真夏は制服を着て登校の準備もしていない。


(この娘学校いってないのか…)


察してなるべく当たり障りのない答えを絞りだす。


「方程式難しいからね、休んでなくても苦戦するよ。」


真夏もちゃんと気まずそうな顔をしている。


「よかったら、俺でよければ教えるけど」


「……え?」

真夏が目を丸くする。


まるでそんな提案をされると思っていなかったみたいな顔だった。


「いい考えね!」

案の定、菖蒲さんが食いついた。


「和ちゃん勉強得意だものねぇ」


「いや、そんな大したことじゃ」


「大したことあるわよ〜」

即座に否定される。


(余計なことを言ったかもしれない)

逃げ道が塞がれた。


真夏は問題集と俺を交互に見ていた。


警戒している。


昨日のこともあるし当然だ。


むしろ警戒していない方がおかしい。


だから断られると思った。


ところが、

「……その」

真夏が問題集を抱き寄せる。


少しだけ視線を落として、


「一次方程式だけです」

と呟いた。


「ん?」


「分からないの、その辺だから」

耳まで少し赤い。


恥ずかしいのだろう。


勉強を教わること自体が。


あるいは年下の範囲をやっていることが。


「別にいいよ」

隣に座る。


「一次方程式なら十分くらいで終わると思うし」


「十分……?」

真夏の顔が引きつった。


どうやら彼女の中では長期戦らしい。


俺は問題集を受け取る。


赤ペンの跡がやたら多い。


何度も解き直しているのが分かった。


サボっていたわけじゃない。


理解できなくて止まっているだけだ。


「ここさ」

問題を指差す。


「移項するときに数字だけ見てるでしょ」


「え?」


「式全体じゃなくて」

真夏が黙る。


図星だったらしい。


「だから符号を落とす」

紙の端に式を書き直す。


「まだ、この内容なら基本的な型さえ覚えれば対処できるよ。例えば──」

説明を始めると、


真夏は驚くほど真面目に聞いていた。


途中で一度も口を挟まない。


視線だけが必死についてくる。


なるほど。


勉強が苦手なんじゃない。


理解力はそれなりにある。

たぶん誰にも聞けなかったんだ。


十分後。


「……できた」

真夏がぽつりと言う。


今度は自力で解いた答えが合っていた。


「ほら」


「……ほんとだ」

小さく目を見開く。


その反応は少しだけ年相応だった。

俺は思わず笑ってしまう。


すると、


「なに?」

即座に睨まれた。


「いや、別になんでもないよ」


「馬鹿にした?」


「してない」

プライドはそれなりにあるらしい。


「絶対した」


「してないって」

昨日とは違う意味で空気が動く。


その様子を見ていた菖蒲さんが、

「ふふふ」

と楽しそうに笑った。


「仲良くなれそうで安心したわぁ」


「なってません」

「なってないです」


珍しく声が揃った。

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