第95話 雫の恋人です、以後お見知りおきを
師父様に質問した老爺は、申し訳なさそうに頭を下げてから続けた。
「あいやずいぶんお二人は親しそうにされておられるし、それになんとも里の作法にも詳しそうなものですから。その割には、私はお顔に見覚えなくてですね」
全員の視線が、一斉にこちらを向いた。真顔を作って、ただ正面を眺めていることにした。
まひるやアリスにまで凝視されていた。力が入って、背筋や首が突っ張った。
「できれば、そちらのお方も紹介して頂けるとありがたいのですけれども。素性の知れぬものを里に置くと私ら緊張してしまって。職業病みたいなものですけれども、みな同じ気持ちのはずですので、是非とも私らを安心させてはくれませぬか」
「うむ、その思いわしも理解するところであるぞ。ならば、当人に自己紹介をしてもらうのが早かろう、よいな、リン」
師父様の視線が、こちらを向いた。床の間側に向き直って、リンは深く頭を下げた。
「は、承知いたしました」
席側に、身体を戻す。足を組み直してから、面々に視線を送った。
みな、知っている顔だ。商工会長、豪農、隠密頭、村長、山守……里の重鎮が集まっている。ジンを知らぬものはいない、しかし、リンを知るものはいない。
なかなか言葉が出なかった。己をなんと説明すればいい。ボロを出せば、素性を悟られかねない。
いつもやわらかい唇が、乾いていた。閉じていても、湿度を感じられなかった。
「そ……某は……」
なんと、なんと申せばいい、熟練の忍びをどう誤魔化せば――
膝に置いた手に、温度を感じた。
手の甲に、指が置かれていた。ほっそりとしていて、皮膚に沈み込んでくる。
確かめなくてもわかる、雫の手だ。
肩の力が抜けて、胸の中の風通しがよくなった。視界が広がって、部屋全体がよく見えるようになった。奥の襖がわずかに開いていて、そこから春が顔を覗かせていることに気づいた。
柱を抱いて、じっとこちらを見つめていた。がんばれ、と口が動いたような、そんな気がした。
姿勢を正した。胸を張って、言った。
「某は里の隠し子であり、春の姉です。そして、雫の恋人です、以後お見知りおきを」
そうとだけ言って、頭を下げた。拍手も歓声も聞こえてこなかった。むしろ、ひそひそと耳打ちし合うような声がそこらじゅうから聞こえていた。
顔を伏せている間、添えられた手の温度に浸っていた。
雫が耳元でささやいた。
「リンちゃんって地元に居場所がない感じなの?」
雫を見て、微笑んだ。
「いえ、居場所はあります。街でも里でも、地球の裏側でも変わらず、リンには帰るところがあります」
むしろ、どこにも帰属できないのはジンの方だったかもしれない。
雫も滲み出すような笑みを浮かべた。
「最近直球だよねえ、んふふ」
見つめ合っていると、周りの音は聞こえなくなった。
顔を近づけたくなる、こんな場所でも。
5秒間もそうしていると、とんっと背中を叩かれた。
「違うところを見てると、皆さんに失礼ですよ」
まひるだった。口元がむくれているように見えた。
返事をする暇もなく、まひるはそっぽを向いた。箸を取って、また料理にがっつき始めた。
なんだろうか、この女はたまによくわからない。
「そうだね、あとにしよっか」
そんなことを言って、雫は少し困ったように笑っていた。




