第89話 今の自分があるのは雫のおかげだ
師父様はどこからともなく取り出したキセルを咥えた。深く吸って吐き出すと、焼けた葉の臭いがこちらまで漂ってきた。
頭を下げて、リンは言葉を待った。室内が影になり、床が暗くなっていた。
灰を落としてから、師父様は言った。
「思いの外、貴様はようやっておる。褒めてつかわそう」
「は、お褒めのお言葉、痛み入ります」
「東山殿との関係構築、これほどまでに順調とは思いもよらなんだ」
皮膚の表面が浮くような感覚があった。飛び跳ねたい、そんな気持ちを抑えた。
雫との関係、師父様の目からしても、そう見えているのか。
そうか、これまでの日々は失敗ではなかったか。
「発言、よろしいでしょうか」
「許す」
ほんの少しだけ、頭を沈めた。
「機会を賜りましたこと、大変感謝しております。此度の任務は未熟なこの身を、成長させてくれました。春ではなく某に命じてくださったことの意味、今では痛感しております」
言い過ぎではないか、なんの権利があってこのような気持ちを口にしている。それを伝えてどうなるというのだ。必要のないことだ、師父様と自分の間には。
無礼を働くな、個人的な感情は内に秘めておけ。
閉じた口が、また開いた。
開いていた。
「忍びとして、なによりも人として、以前とは違うところに立っているのだと、自覚しております。誰かを思えば刃の切れ味が増します、身体をいたわえば常に能力を発揮できます、人を想えば簡単に死を選べなくなります。お教えには背くやもしれませんが、刃であるだけではかくも脆いものだと学びました」
くらくらして、頭の位置を一点に保てない。鼓動と合わせるように、体内で熱が波打っていた。
師父様は黙っていた。あるいは刀を抜いているかもしれない、切腹を命じられるかもしれない。芯は微かに震えている。されど、口は動き続けた。
「東山氏……いいえ、雫が全て教えてくれました。喜びを教えてくれました」
目を瞑って、師父様の言葉を待った。少しして、小さな笑い声が聞こえてきた。
「ふふっ、発言とはそれだけか」
「は、左様です。……言葉が過ぎたかもしれませんが、嘘偽りない率直な心境です。任務評価の参考になるかと」
「然り。逸脱しておったわ。わしが癇癪を起こせば、切腹を命じてもおかしくはない。が、東山殿にお叱りを受けてしまうのでな、今回は許そう」
頷いてみせるように、深く頭を下げた。
ふぅっと師父様が煙を吐いた。
「さて、その任務の件よ、呼び止めたのは。順調も順調であること、この目で確かめさせてもらった。ゆえに、次なる段階へと移行するべきだと判断した。伝える、しかと聞け」
「はっ」
師父様は立ち上がり、こちらへと近づいてきた。重い足音が、目の前で止まった。
顔が近づいてくるのがわかった。ぬるい息が、耳にかかった。
「――夫婦になれ、この里で」
「はっ……は?」
思わず、顔を上げた。師父様は正面におらず、耳の側でしゃがんでいた。
圧のある声が、脳を揺さぶった。
「貴様は己が何者であるか、忘れたわけではなかろう」
肩に手を置かれた。
「のう――ジンよ」
首はぴくりとも動かなかった。ぐらぐらぁと視界が歪んでいた。
それは違う、それだけは。
「返事をせい」
固く締められているような首を無理やり動かして、師父様を見た。つばを飲み込んで、かぶれたような体内から声を絞り出した。
「しょ、承服できません、それは、雫が望んでない」
違う、違う違う、好きになってもらったのはジンではない。
好きで、好きなのは、リンだ。
「ほぅ、口答えするか」
師父様はにやりと口元を歪めた。




