第82話 師父様の視線が、いつもとは違う意味で気になる
浴室から飛び出し、タオルで身体を包んで居間に出た。
ダイニングテーブルに、春の設置したタブレットとカメラが置かれていた。目にかかる前髪をかきあげて、その前に立った。
「お待たせしました。入浴中のため即座に応答できず、ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした」
深く頭を下げると、威圧感のある声がスピーカーから聞こえてきた。
『よい。休日に呼び出したこちらにも非がある。面を上げい』
「はっ」
水滴が垂れぬように注意して、顔を上げた。ディスプレイには、行灯に照らされて座する師父様が映っていた。
いつものように、手にしたパイプから煙を漂わせていた。
「差し出がましいのですが、ひとことよろしいでしょうか」
『申せ』
「里への帰還命令が出されたと聞き及んでいます。どうかその決定は保留にしていただけませんでしょうか、現状、雫の元を離れるのは得策ではないものと存じます」
カメラに顔を近づけた。テーブルが邪魔で、上体を突き出すような姿勢になった。
師父様はパイプを咥えて、うまそうに吸ってから煙を吐いた。
『ときにリンよ、貴様、ようやく心得たようだな』
「はっ。それはどのような」
『交渉に色を使うようになるとは、わしも嬉しいぞ』
「うれし……ぁ……」
自分の胸元を見た。タオルに覆われているが、心もとなく肌色の面積が多い。しかも結びがゆるくて今にもはだけてしまいそうだ。
ずりおちて乳首の頭すらも見えてしまいそうな……不覚。
「お目汚し、失礼しました。急ぎでしたので……今後は注意します……」
肩を縮こませる。指でタオルを摘んで、胸が見えなくなるように引っ張った。
ディスプレイから目を逸らしそうになって、すぐに戻した。
『ほぅ、隠すか』
「も、申し訳ありません、やましいことがあるわけでは、決して。どうぞお気になさらず、会話の続きをば。格好のことは、無問題です」
胸に置いた手は、離せなかった。指がぎゅっとタオルを握ってしまっていて、力を抜いてくれない。
何百何千と繰り返してきたこの対面、なぜこんなにも落ち着かない。
『気にするでない。風呂時を見誤っていた老人の落ち度よ、許せ』
「はっ、お言葉、痛み入ります。つ、つきましては件のご命令についてなのですが、やはりここは一度再検討をお願いしたく存じます。現場の責任者として、現段階での撤収は推奨できません」
『顔が赤うなっとるぞ、息も荒い。ふふ、よい、衣服を纏ってこい。話を聞くのはそれからよ』
大丈夫です、と言えない。口は固まってしまって、動かない。代わりに、こくん、と、頷くことだけができた。
「は……はい……お待ちを……」
できるだけ身体が映らないようにしながら、カメラの外に出た。
「師父様の前でなんたる……ぐぅ」
ため息を吐いてから、浴室へと戻った。
ぽたぽたと垂れる水滴が、フローリングを濡らした。
正装を用意しようかと思案していたところ、雫と春から待ったが入った。結局、最初から用意してあったTシャツとハーフパンツを履いて、師父様の前へと戻った。
当然のように、雫は隣にいた。
「こんばんはー師父さん、お久しぶりです。またリンちゃんのこと虐めてたんですか?」
『これはまたご挨拶ですな東山殿。ですが安心なされい、部下いびりなどしておらぬゆえ』
雫はこちらを見た。目を合わせてきたので、ゆっくりと頷いた。
雫は師父様に向き直った。
「ならよかったです。ですけど、なんだか嫌な話してますよね。そっちがちょっと心配です」
口を裂くように、師父様は大きく笑った。
『心配ご無用。此度の提案は、あなたや其奴が案じているようなものではござらぬ。つまりは、このような話』
師父様は、笑顔のまま器用にパイプを咥えた。




