第77話 久しぶりにキスをした
差し込む太陽光が、天井のシーリングライトに影を作っていた。
それを眺めていると、里の青空が脳裏に浮かんできた。畑と田んぼと山と、演習場しかないのどかな場所。ありふれた山村だ。
目を上に向けたまま、リンは口を動かした。
「生まれ育ったのは、どこにでもある秘密組織の隠れ里でした」
隣で雫がつぶやいた。
「常識からして違う」
リンの肩が跳ねた。顔を下ろして、雫を見た。
「常識、ですか?」
「あ、ううん、なんでもないよ、続けて、続けて」
「はい、では改めて。と言っても、話すことは大して多くはありませんが」
記憶をたどる。まるで外側から見ているように、忍び装束に身を包んだ子供の自分が思い浮かんだ。師父の住む藁葺き屋根の邸宅、忍び屋敷の庭で繰り返し腕を振っていた。
まだ幼い、4歳か5歳ほどだ。猛暑日に、日課である手裏剣の素振り千回をこなしているところだった。
見えたものを、そのまま雫に伝えた。
「鍛錬は精神を鍛えることから始まります。型を定着させることで、己が何者であるか身体に教え込むのです。自慢ではありませんが、目隠しをしていても、的の中央に命中させる自信があります」
「へぇ。その鍛錬ってリンちゃん一人だったの? 春ちゃんとか、他の子たちはいないの? あと、お父さんお母さんは?」
左肩に体重が寄ってきた。雫の声には、どこか勢いがあった。
「単刀直入に言うと、両親の顔は知りません。里の子供は、早い段階で師父様やその他指導者の養子に入るのです」
雫はやや下を向いて、伸ばした足を浮かせていた。
「そっかぁ、会ったこともないの?」
「はい。里に暮らしているのかも定かではありません。ただ、春と血縁関係にあることは事実です。理由は判然としませんが、兄妹は一緒に育てられるというしきたりがあるのです」
「過酷なんだね、忍者の世界って。あんまり想像できないなあ、わたしには。じゃあ、集められた子どもたちで生活的な、あれ、でも前に集団生活は経験ないって聞いたよね?」
振り向いた雫と、目を合わせた。
「嘘ではありません。少子高齢化ですので」
「うっ、里の嫌な現実。でもゼロじゃないでしょ、友達とかいなかったの?」
「知人と呼べる仲の同年代は、一人か二人でしょうか。早い段階で選別され、用途を仕分けられますので」
その数少ない顔見知りとも、もう顔見知りではないかもしれない。誰がこの姿を過去と結びつけるのか。そもそも奴らは生きているのだろうか。
そんなことはどうでもいい。雫はなにを知りたいのか、なにを話せば喜ぶのか。
それだ、今は。
「春が某と様子が違うのも、早いうちに戦闘員ではなくて、後方要員として見初められたからなのです。そうすれば訓練も多少は軟化しますので、精神的な余裕も生まれ、世俗を学ぶ時間が与えられます。姉としては嬉しい出来事でした、珍しく」
笑顔を作ってみたが、雫はどうにも渋い顔をしている。
「忍者さんって潜入とかするのも任務だって調べたよ。街に溶け込むのも大事な素質だって、リンちゃんなんかちがくない?」
「痛いところを。いやしかし、忍びも現代では分業制ゆえ。ですから、今回の任務は無理難題だったのです。攻撃的な仕事ばかりだった人間が女子高生ですから、苦労もします」
ようやく、雫は笑い声を漏らした。そよ風のような、小さな笑いを。
「だよねぇ。木になって『某は怪しいものではございませぬ、ご内密に』だもん。笑っちゃうよ、めっちゃくちゃかわいいし、世界が変になったのかと思った」
顔の温度が上がった。ぴったり閉じた口を、もにょもにょと動かした。
「いえ、あれは雫が鋭すぎるんです。普通は見破れません、絶対に」
「えー、バレバレだったけどなぁ、うふふ」
雫は、拳を作って口を押さえた。目を閉じて、嬉しそうに肩を揺らした。
首から下げたネックレスが、キラキラと輝いていた。
「しかし、今では師父様の配置に感謝しています。幼少期には与えられなかったものを、今になって授けてもらっているような、そんな気がします」
自分の鎖骨を触った。なぞるように、指をすべらせた。
二往復、そんな動きをした。一旦閉じた口を、開いた。
「毎日、嬉しいことだらけです、雫といると。楽しくもない過去の記憶ですら、不思議と華やいで見えます。刃であるための鍛錬は、今日に結実しているのではないかと」
笑顔をにじませて、雫はリンを見つめた。
「その詩的な言い回しも、リンちゃんっぽい。告白みたいで、ちょっとキュンってするし」
「みたい、ではありません。何度口にしても、いいものです」
雫の目を見た。向こうも、こちらを見ていた。
息を止めて、口を閉じた。
身体が勝手に動いて、雫にキスをしていた。
ほんの一秒だけ、唇が触れ合っていた。
雫は指先で自分の唇を撫でて、何事もなかったかのように正面を向いた。「うーん」と声を出して、両手両足を伸ばした。
「話してくれてありがと。リンちゃんのふるさと、ちょっと、ううん、とっても興味出ちゃったかも」
雫はまたこちらを向いた。
「いつか連れて行ってくれる? 行ってみたい」
「はい、喜んで。機会があればいつでも。許可は必要になりますが、即日取得して参りましょう」
にししと笑って、雫は付け足した。
「実家に挨拶しないとだもんね」
雫は破顔して、しばらく楽しそうにしていた。
返事の代わりに首を振っていると、時計が目に入った。11時過ぎだった。
おほん、と咳払いをした。
「さて、昼食はどうしましょうか。出前などを取るか、そ、それともせっかくエプロンがあるので料理をするとか……」
唇の下に指を当てて、雫はゆらりゆらりと頭を振った。
「んー、どうしよ――あ、そういえば」
パンっと雫は両手を叩いた。
「まだ春ちゃんへのプレゼント買いに行ってなかったよね」
プレゼント、褒美のぬいぐるみか。それならば通販で注文済み、と言おうとして、やめた。
雫とお買い物、魅力的な響きだ。




