第65話 人差し指の表面を、雫はぺろっと舐めた。
めいたんとの戦闘があったその夜、春は鼻歌をうたいながらキーボードを叩いていた。
「証拠隠滅~、捜査撹乱~、処理班との緊密な連携~、春は兄姉さまの優秀な妹~♪」
汚れた制服を脱ごうともしないで、事後処理に奔走している。高速でタイピングしながら、里の人間と通話し、同時にテレビ報道も片目でチェックしていた。
その様子をリンはフライパン片手に見ていた。手元からはじゅーじゅーと油の音が聞こえていた。
カウンター越しに見える春は、休むことなく働き続けている。我が妹ながら、見上げたものだ。やはり褒美はぬいぐるみだけでは足りぬのではないか、師父様に掛け合って報奨金を与えてもらおうか。ポケットマネーからも少々――エプロンを引っ張られた。
見ると、隣にいた雫がコンロの火を止めていた。カチッと鳴って、油の弾ける音は聞こえなくなった。
「こらぁ、よそ見しないよ。あとエプロンずれてる」
前がけを指でいじられる。僅かなズレを調整して、雫はリンの脇腹をぽんと叩いた。
「これでよし。もぅ、ちゃんと着けないとかわいいお洋服が汚れちゃうよ」
「これはかたじけない。ご忠告痛み入ります」
リンは頭を下げた。
しばらくそうしていると、人差し指で額を押された。顔が持ち上がって、正面に向き直る形になった。
「よそ見もね」
「ん」
リンは手元を見た。ピーマンと肉とたけのこの炒め物、青椒肉絲が鉄の上に横たわっていた。
「申し訳ありません。安全管理のためとはいえ、熱が逃げてしまいました。今後このようなことがないように、肝に銘じさせていただきます」
ぎりと奥歯を噛んだ。ぬかった、己の仕事すら全うできないとは、たるみすぎている。
顔を上げて、雫に向き直った。
「どうぞ、折檻をお願いします。愚かなこの身体と精神、痛みによらねば記憶せぬのです」
雫の人差し指が、前腕部に伸びてくる。そして、なじるでもえぐるでもなく、付着していた油に触れた。押し付けて三センチほど伸ばしてから、すくい取るように指は離れた。
「やけど、しちゃうよ。綺麗な肌が台無しなんだから、気をつけてね」
人差し指の表面を、雫はぺろっと舐めた。
料理が完成して、三人で食卓を囲んだ。
青椒肉絲とスープと白米をたいらげた春は、顔の前で手を合わせた。
「ごちそうさま。雫さん、姉さま、とっても美味しかった」
春はにっと口元を歪めて、リンを見た。
「途中で火止めちゃったところ以外はね、あはっ」
「言うな。次は上手くやる」
「わあ、次もあるんだあ、春は幸せものだなあ」
見つめられて、目をそらした。かゆい、肌の表面がかゆい。かかとが床から浮き上がって、懸垂でもするように上下した。
「そ、そんなことより、処理は上手くいってるのか。食後は協力しよう、仕事を割り当ててくれ。……お前ほど手慣れてはいないが」
春は笑顔のまま、首を左右に振った。
「じゃあ先にお風呂入っちゃって、取り込んだ洗濯物しまっておいて、あとあと、もちろん洗いものもね。布団も敷いておいてくれるとうれしいなあ」
にこにこ、にこにこしながら春は頭を振っている。
喉が詰まる。冗談なのか、本気なのか、真意が掴みづらい。下手なことを言えば途端に風向きが変わったりしないだろうか、周りにいるおなごは、どうもそういうところがある。
ピーマンの苦みが、口の中に漂っていた。
背中から汗を垂らしていると、今度は雫が言った。
「おっけー。じゃ分担しよっか、リンちゃんどうする? 先お風呂? それともお仕事終わってから一緒がいい?」
空き皿に目がいった。ソースがこびりついている大皿があったり、汁が底に残ってるおわんがあったりした。息を吸って、吐いた。
「一緒が……いいです」
春の手がばたんとテーブルに落ちた。雫が両手で口を覆った
「え……あ、そう……でも、ほらぁ、春ちゃんいるよ、いいの?」
「……は?」
春は顔の前で両手を振っていた。
「いいんですいいんです、春のことはぜんっぜん気にしないでください、ふたりがそういう関係だって……わかってますから」
視線をさまよわせていた雫が、こちらを向いた。目の縁がとろんと垂れていた。
「えと……なんか積極的だね。あの子との戦いで、なにかあったとか……?」
「あ……いや、そういうわけでは……」
こっちを見て、春が言い出す。
「姉さまもそっか……もう、そうなんだね。えへへ、だいじょぶ、嬉しいよ」
春は力なく笑った。
妙に気落ちしたような顔で、雫はささやくように言った。
「それとも、間を取って三人で入る? なんか逆に二人っきりはちょっと恥ずかしいかも……」
なぜか息がまた荒くなって、皮膚の表面が熱くなった。心臓の動きを押さえて、言う。
「春は後詰めなので、さ、三人というのは戦術的合理性に乏しいかと。ですから、ご一緒するのは某だけで十分です」
呼吸を整える。笑顔を作る。
「安心してください、入浴中もあなたを一人にはしません。窮屈かもしれませんが、あの気狂いの脅威が消えたと判断されるまでは、どうかご容赦を」
ちゃぽんっと、シンクの蛇口から水滴が落下した。
食卓から、音が消えた。春と雫は顔を見合わせた。
「ん……これ冗談かな? 春ちゃん」
「……冗談じゃないと思います、雫さん」
二人は深い息を吐いて、ほとんど同時に頭を左右に振った。
「リンちゃんってたまに難しいよね」
「妹として、責任を持って言い聞かせておきます」
そんなことを、言い合いながら。
リンは立ち上がった。無言で食器を集めた。とりあえずこれを片してしまおう、そうしよう。
しかしあの反応、雫の好むところはやはり積極性、あの夜のように……いやいい、いまはいい。風呂で考えよう、風呂で。
かぁっと顔が火照って、唇がもぞもぞした。ぎこちない手で、食器を重ねた。
「あ、手伝うよぉ」
と、雫が立ち上がった、そのときだった。春がテーブルに置いていたスマホが、ぴろんっと軽快な音を鳴らした。
慣れた手つきでスマホを操作して、しかし春は指を止めた。
「姉さま、さっき配信してたアカウントにDM来てる」
「でぃーえむ? なんだ」
「これ」
神妙な顔になった春が、端末を見せてきた。
短く、こう書かれていた。
会いたい めいたんより
手元の食器が、カタカタと揺れた。




