第58話 雫は、某を赤ん坊と勘違いしている
「はーい、お手々上げてー、ばんざーい」
雫に指の先端を摘まれる。それを頭上まで上げさせられて、脇の下がピンと伸び切った。
ゴザに放り投げられたパジャマ、今まさに脱がされようとしているインナー。朝の雫は肌に触れて、脇腹に触れて、首周りにも触れてくる。
シャツがめくられて、腹が露出する。するする、するすると脱がされていく。
「お、お待ちください、この先は自分で処理できますゆえ……身体も昨日よりは気だるくはありませぬ……」
身をよじっても雫の手は止まらない。出っ張りに布が引っかかって、速度が落ちたところで、リンは腕をおろした。
「じっとして、もう少しだよ」
「こ、これ以上は、朝から激しすぎます……それに……」
「それにぃ?」
雫は首をかしげた。ぱち、ぱち、とまばたきをしていて、表情は平静のままだ。
リンはちらっと部屋の隅を見た。布団を一枚だけ片付けてる春がいた。聞かれている、すべて聞かれている、朝のやり取りを。
蕁麻疹でも起きたように胸のあたりがかゆくなった。
「妹が見ています……ですから……ご配慮を願います……」
雫は言った。あっけらかんとしていて、様子はちっとも変わらなかった。
「なんで? 口にしてくれなきゃわかんないなあ」
「なんでも……なにも……」
勝手に足が動いた。股が忙しなく動いて、太ももがこすれあった。
にぃと雫の口元が歪んだ。ぴったり口を閉じて、小刻みに頭を振っていた。
「そ……その……二人っきりならいざしらず……気が散ります……妙な気持ちになります……」
「ちゃんと言ってくれなきゃわかんないよぉ。まいっか、これ脱ぎ脱ぎしたら次は下着だからね、んふふ」
「で、ですからっ」
「リンちゃん」
雫の口が、耳元にやってきた。ふわぁと息を吹きかけられて、耳の穴からしびれが広がった。
「言って。わかる言葉で言って」
どくどく、心臓が暴れ出す。鼓動が弾んで、胸が割れそうになる。声にならない声が喉を振動させる。
「うぅ……」
春の様子を窺う。背中を向けている。まだ。しかし、あの顔がこっちを向いたら、見られる。すべてを見られる。見られてしまう。
それは、それは、それは――
胸に手がいった。顔を伏せた。
言った。
「その……ですから……恥ずかしい……です」
一気に明度が上がるように、雫の顔に笑顔が広がった。胸の前で両手を合わせて、またまた頭を揺らしていた。
「忍の世界にも上下関係があります、い、妹といえど、威厳を保つ必要があるのです……ご理解ください」
「わはぁ、リンちゃんだぁ」
「し、雫ぅ」
どばっと勢いよくシャツを脱がされる。腕を上げた下着丸出しの姿で、抱きつかれる。
鎖骨のあたりに雫は頬をこすりつけてくる。んぅ、だとか、くふぅ、だとかおかしな声を漏らしている。
「お、おやめくだ――」
「兄姉さま」
真横から、声がした。振り向くと、春がいた。
「は、春、違うんだ、常日頃からここまで堕落しているわけではない、雫が、雫のタガが外れて、今日は特におかしいだけなのだ」
肩に手を置かれた。0が1になったように、春の表情が笑顔へと変わった。
「大丈夫だよ。威厳、もうないから」
春は、空いた方の手で親指を立てた。
声が出なかった。雫はまだ、胸と密着していた。壁掛けの時計などを見た。ああ、そろそろ出発せねばならんなあ、とリンは思った。
春は言った。
「雫さん、洗濯物貰っちゃうね。あ、下着もお願い」
「おっけー、ちょっとじっとしててねぇ」
ブラを外され、パンツを脱がされた。
全てが終わってしまって、雫と春は、脱いだ服を分担して抱えた。談笑などしながら、部屋を出ていこうとしていた。
それを眺めていると、新しい下着とパジャマが飛んできた。春が、こちらを指さしていた。
「ぶりかえさないうちに服着ちゃって。朝ごはん出来てるから、向こうで待ってるね」
言い残して、春は部屋を出ていった。雫も引き連れて。
廊下から、賑やかな声が聞こえてきた。
「雫さんってばすごいねえ、姉さまのことあんなトロトロに出来る人いないよ」
「んふふ、コツがあるの、リンちゃんは。春ちゃんにも教えたげよっか」
「あはっ、まじですかぁ、知りたい知りたいっ」
「リンちゃんはぁ――」
バラバラに聞こえる足音と声は、次第に遠ざかっていった。
リンはつぶやいた。
「か、敵わぬ」
服を抱えて、リンは立ち尽くした。手荒すぎる、この少女たちは。
しかし、しかしだ、飲まれてはならぬ。威厳を保とう、威厳を。惑わされるな、妹にも、恋人にも。
丹田を引き締め、深くゆっくりと息を吐いた。
着替えてから居間に向かうと、春は制服を着ていた。白米の盛られた茶碗を手にしたまま、駆け寄ってきた。
「今日も、春が代役任されるから」
「完調とは言わぬが、登校する程度ならば支障はない。代役は」
春は、一歩分近づいてきた。
「必要でしょ、まだ。今日一日、今日一日だけ大人しくしてて、いいでしょ」
視線が重なる。逆光を受ける春の顔は、やや影になっていた。
しかし顔は引き締まっていて、目はハッキリと開いていた。
「騒いでいたかと思えば、途端に真面目になる。姉でありながら、真意は掴みかねるな」
春の視線が、逸れた。
「姉さまには、万全でいてもらいたいから、無茶させられないよ。それに、それにね、春の方もこうなった以上、雫さんともっとコミュニケーションが必要だと思うから、いい機会なんだよ」
「そうか。ならば、あと一日程度なら、お前に委ねるのもやぶさかではないな」
「ほんとっ。じゃあ、任されるよ。よかった、姉さまが素直で」
春は、沈み気味だった顔を上げた。揺れる瞳を、リンは見つめた。
「その代わり、命に代えても雫を守護しろ。昨日と同じように、決して気を緩めるな」
「うん、わかってる。それは絶対条件だよね。じゃ、朝ごはんにしようよ」
「ああ」
手を引っ張られる。日の当たる場所を歩いて、雫の待つテーブルへと向かった。
春の表情は明るい。いつも明るいが、今日は太陽にも勝る。
リンは、聞いた。
「そういえば、報告をまだ聞いていなかったな。学校はどのような場所だった?」
春は振り向いた。一瞬気の抜けたような顔になって、すぐに笑顔に戻った。
「えっと、うん、そうだなあ、姉さまの学校やばすぎる。死ぬかと思うし、重すぎるし、雫さん春のこと試してるし。なんか怪しい気配いっぱいあるし」
「ふっ、ようやく某の苦労がわかったか」
くすりと笑って、春は正面に向き直った。
「ね、あんなとこ春には向いてないなーって思った。順応してる姉さまはすごい」
やや間をおいてから「ほんと、すごいよね」と春は繰り返した。




