第57話 あの人には敵わないと妹は言う
居間に入って、まず春に声をかけた。
「なにか飲むか。ここあだとか茶だとか、温かいものがいいだろう」
前を歩いていた春が、ぴとっと足を止めた。声も出さずに振り向いて、じろっと人の顔を見つめてきた。
「え、淹れてくれるの? 春のために」
「ああ、もちろん、好きに選べ。特別だ、備えがなければコンビニまで走ってこよう」
春は丸めた手を、口元に当てた。軽く首を振るような仕草をした。
「えっと……じゃね、なんでもいいよ、兄姉さまが選んでくれたのがいい」
「ん、ああ、しばし待て」
キッチンに向き直る。丸めた拳が、固くなる。冷蔵庫、棚、無機質に並ぶそれらを見る。
どうする、煎茶かほうじ茶か、ここあ、珈琲……いやカフェインの多いものはダメだ、眠れなくなってしまう。だとしたら無難に茶か、しかしそれでは地味すぎるのではないか。
「ぐぅ……」
背中に力が入った。噛み合った歯がぎりりと鳴る。おのれぇ、なにゆえ基準がない。この不届き者め。
背後で、春が不思議がるような声を出した。
「どしたの? なんかあった?」
カピカピに目が乾いている。頭がくらくらしてくる。まず左端に目を動かして、それから振り向いた。
「考えてみたのだが……」
「見たの、だが?」
顎を出すような格好で、春は首をかしげていた。
「白湯などは……どうだろうか」
背筋を汗が垂れていった。目を合わせたまま、数秒間の沈黙があった。
やがて春は、緊張が弾けたように笑った。
「うん、いいよ。白湯、あったまるもんね。ありがと」
手で口を覆うようにして、春は笑い続けた。肩を揺らして、頭を上下させて。その顔には傷も汚れも険すらもなく、学校で見るような少女達の笑顔とも変わらない。
胸の内に、やわらかな熱が広がる。肌を溶かして、表情を緩くさせた。
キッチンに踏み入って、白湯を用意した。熱くなりすぎないように、温度を気にして。
照明の点いたキッチンから、暗い居間へと春は移動した。明かりも点けずに部屋を横切って、窓辺へと近づいていった。
とぼとぼと歩く背。肩が丸まっていて、いつもより小さく見えた。
春が窓を開けると、カラッとした風が室内へと吹き込んできた。
「んぅ、いい夜風」
羽織った上着をはためかせ、春は夜の街を眺めていた。窓枠の中の背中。空を覆い隠し、夜景を遮り、隙間から僅かばかり光点が見えていた。
「兄姉さまは、いつもならこの時間は外にいるよね」
「ああ、それがどうした」
春の頭が、微妙に下を向いた。
「だから雫さんは、泊まるって言い出したんだ」
「……かもしれぬな。ぬぅ、雫は気配りが出来すぎる」
鎖骨のあたりを、指でさすった。ちょうど掌底が左胸に触れていて、心音が骨に響いてきた。
春は振り向いた。月明かりが、顔にコントラストを作っていた。
「おいでよ、兄姉さま。せっかくなにもしなくていい時間をくれたんだ、ちょっとくらい自分たちのために使ってもいいよね」
軽く、頷いた。窓に近づくと、春はベランダへと降りていった。
湯呑を先に置いてから、春は手すりへと飛び乗った。外側に身体を向けて、足をぶらぶらと動かしている。
「隣、来ない?」
「いや、ここでいい。間抜けな妹が落ちた場合に、助けられなくなる」
春はくすっと鼻を鳴らした。
「ありがと。大切にしてもらって嬉しいよ」
人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべて、春はこちらを見てくる。ふらふらと頭が揺れていて、どうにも落ち着きがない。
胸の中がざらつく。気道が狭まったような感覚があって、身体の内側がかゆくなった。
一度、咳払いをした。
「んんっ、くだらんことを言うのはよせ。そのような揺さぶりをかけられるのは、雫だけで十分だ」
「ふふっ、揺さぶられちゃうんだ、かわいいー」
「茶化すなっ。まったく、お前も少しは節度というものを持ち、忍びとして模範的な振る舞いを……まあいい、とにかく人をからかうのはやめろ」
「はいはい、いっつも真面目なんだから」
けらけら、けらけらと春はおかしそうに笑っている。影もなく闇もなく、ただの少女のように。
露出する手足に、傷はひとつもない。顔だって綺麗なものだ。そのようなところからして、忍びらしくない。凄みもなければ圧もない。腕は確かだが、やはりまだ未熟。
あるいは家業自体が似合わないのかもしれない、この妹には。
「んぅ? なぁにエッチな目で見てぇ」
尻をずらして、春は顔を近づけてきた。
「し、雫のようなことを言うのはやめろと言ったばかりだぞ、けしからん。そうではない、ただお前のようなものには、昨日のような潜入など向いていないと思っただけのこと」
春の目や口が、脱力したように垂れた。
「兄姉さまがそれ言っちゃう? ばっちしやれてたと思うけどなー」
「いいや、やれておらん。そもそも、雫の前であのような感情的な態度を取ること自体が未熟の証。己を律してこその忍びであるぞ。対抗意識を燃やすなどと、らしくもない」
「どの口が言うんだか、ほんとに。そっちこそいつもあたふたしてるくせにぃ」
むくれるように口を膨らませて、春は顔を遠ざけた。手すりに両手をついて、夜空を見上げた。
「ま、春なりに弁明させてもらうけどさ、あれって全部本気じゃないよ、こっちにだって思うところがあるから、それをちょっと試してただけ」
「思うところ……兄への不満か」
春は振り向いた。
「姉ね。あと不満じゃないから。むしろ……」
口を揉むような動きをして、春は言い淀んだ。その目は下を向いたり、上を向いたり、落ち着かない。
最終的に下を向いて、春はつぶやいた。
「意地悪して、雫さんがどう出るのか知りたかったの。ほんとは、怒ったり、愚痴ったり、拗ねたりするかなって思ってたんだけど……」
トンッと春の踵が外壁を叩いた。また正面に向き直ってしまって、その表情は見えない。
つっかえるような、抑制するような、そんな声が聞こえてきた。
「あの人が何者なのか、春にはわかんないけど。けど、兄姉さまのこと大事にしてくれるってのはわかったから……敵わないかもって」
やはり春は落ち着きがない。横から見る頬は、小刻みに動いている。
「やはり張り合っていたのか」
「だぁからぁ、そうじゃ――あっ」
春は腕を立てて、身体を浮かせようとした。しかしその拍子に、手が滑ったのか、体勢が崩れた。足が浮いて、背中が手すりを滑った。
「春っ!」
その身体が投げ出される。春の姿が消える。
リンは手すりを飛び越えて、空中へと飛び出した。自由落下に身を任せて、妹を探す。落ちた、どこだ。首を振る。見回す。下、いない、ならば――春は外壁にぴったりとくっついていた。
「おっとっと、危ない危ない」
春は、手すりに巻き付けた剛糸を掴んでいた。伸びた片腕を曲げて、あっという間にベランダへと戻っていった。なに食わぬ顔で、こちらを見下ろしてきた。
「そんなとこにいたら、落ちるよ?」
「よかった、お前も大した――あっ」
魔力で足場を形成しようとして、底が、抜けた。重力に引っ張られる、身体が持っていかれる。せ、制御が、いつもと違う。
5メートルも下降して、鈎縄を生成して、手近なところに引っ掛けて、ようやく落下を食い止めた。
「うっ……ぐぅぅ……春……」
重たく熱く喉の奥を焼くような息が、肺から出ていった。
上空から、よく通る声が聞こえてきた。
「だいじょーぶ? 力貸そっかー?」
「い、いや、平気だ、この程度、なんともない……ない」
全身が脱力した。怠い、重い、風邪がぶりかえす。
「もー、兄姉さまってば必死になっちゃって、ふふっ」
のんきに見下ろしてくる妹を見つめて、思う。ひとつだけ思う。
ああ、なんにせよ、あいつが無事でよかった。
夜風が染みて、身震いがした。




