第55話 雫が見舞いに来てくれた
もうすぐ、雫が家にやってくる。
学校が終わり、二人はスーパーマーケットに立ち寄り、あまり会話もなくこちらに向かって歩いてきている。
モニターを見る。手からビニール袋をぶら下げた雫は笑顔だが、春ときたらそっぽを向いている。マンションのエントランスを抜けても、エレベーターに乗り込んでも、変わらず沈黙は続いていた。
「もうすぐか……出迎えに……」
布団から肩を出したところで、身体が止まった。
動けないことはない、出迎えて元気な姿を見せることは可能だ。可能だが、雫はなんと言うだろう。
まぶたが重くなって、半眼になった。ぴしゃんと頭の中で音がした。いよいよ引っ叩かれるかもしれん。いや恐ろしや鬼が増えるぞおそらく。
「しかし無礼では……だが雫殿は無理を望まぬから……ここは……」
布団に潜り直した。ああ、いい、構わん。
病人でいよう、今日くらいは。
カシャリと玄関の鍵が開くやいなや、騒がしい声が聞こえてきた。
「だからぁ、大人しくしててください。勝手に歩き回らないで……ああ、だめです、先に上がらないで、指示に従って……もうっ」
「リンちゃーん、雫ちゃん来たよー」
ダダダッと足音が聞こえてくる。早歩きというよりも、もはや駆け足に近い。
音は、ちょうど部屋の前で止まった。
「あ、ここでしょ、入るね」
「ちょっ、なんでわかるんですか、ダメッ勝手に開けないでっ。私がやりますから」
ギィと鳴いて、ドアノブが回った。
隙間からひょっこり伸びてきた雫の足が、フローリングを踏んだ。
「わぁリンちゃんいたぁ。ちゃんとお休みしてて偉いねぇ」
ほとんど床と変わらない高さから、雫を見上げた。
モニターでも、実物でも、やはり笑顔。薄暗かった部屋が、やや明るくなる。にこにことしていて雫はぶれない。
いつもいつでも、同じだ。
「雫との約束ですから。情けなくはありますが、このようなときこそ休まねばと」
また熱がぶりかえしてくる。喉を通る息が、今日一番で熱い。
「うん、よくできました」
雫の笑顔が、さらに弾ける。頬は目一杯上がっていて、少し歯が見えている。視線が重なる。雫――名前を呼びたくなる。
来てくれた、こんな病人のために。
雫は布団の側でしゃがんだ。この距離になって、笑顔が消えた。
「お熱まだあるの? 身体、痛いとこない?」
「ご心配なさるな。このような有り様でも某は忍び、もう身体の方は、ほとん」
言いかけて、止めた。言い直した。
「今日一日安静にしていれば、きっとよくなります。その、看病などをしていただければ、治りはさらに早くなるかもしれません」
笑顔を作った。うむ、これでいい。雫は喜ぶ、これでいい。
「うん、任せて。おかゆ作ってあげるね」
雫の顔に、笑顔が戻る。目を見つめる。50センチの距離がなくなるような、そんな気がする。
「かたじけない。本日は、甘えさせていただきます」
言葉はなくなった。雫を見る。雫に見られている。目があって、鼻があって、口があって、揃った前髪が――バッと掛け布団が剥がされた。
「ごめんね、布団変えるから、ちょっと我慢して。あ、雫さん、そこ邪魔」
ぬくもりが消えて、冷たい空気がパジャマに染み込んできた。思わず身体がのけぞる。敷布団に片肘を着いて、体重を支えた。
「は、春?」
器用に布団を折りたたんで、春は背を向けた。
「おかゆ、私が作るから。お客さんは居間で休んでて。姉さまも、喋ってると喉悪くするよ」
布団を抱えて、春は部屋を出ていった。扉は開けっ放しで、閉めようとする素振りすらなかった。
春の動きを目で追っていた雫が、ぼそっとつぶやいた。
「春ちゃんってば、素直じゃないんだから」
雫はこちらに向き直った。頭を左右に揺らして、小さな笑いを漏らした。
「やっぱりぃ姉妹だね」
「は?」
「んふふ、じゃ、わたしも手伝ってくるから、ゆっくりしててね」
追いかけるように、雫も部屋を出ていった。布団はないまま、エアコンの風が直に当たり続けた。
なんだったんだ一体。布団はどこだ。
首をひねっていると「くしゅんっ」と軟弱なくしゃみが出た。




