第51話 妹に主導権を握られるほど情けないこともない
日課である朝の水浴びをしていると、胸から頭に向かって震えが上っていった。
「は……は……くしょん」
鏡に映る素っ裸の自分が、くしゃみをしていた。髪から滴る冷水に、鼻水が混じった。
極寒の海のように、やたら水が冷たい。腕を組んで縮こまっても、身体は温まらない。ぶるぶる、ぶるぶる震えて体内が寒い。
頭も重い……水温が低すぎる、普段と変わらぬはずなのに。
「日に日に軟弱になっているのか。しかし雫に話したら喜ばれるやも――っくしょん」
またくしゃみが出て、一度鼻をすすった。鳥肌の立つ太ももをこすり合わせながら、風呂場を出た。
身体を拭いても、なぜか寒気が消えなかった。
居間に戻っても、鼻水が止まらない。目の周りがだらんとしていて、奥のほうが鈍痛を訴えている。肘、膝、その他関節という関節が痛い。
「あ……」
スカートのホックを付け損なって、足元へ滑り落ちていった。
傍らでトーストを頬張っていた春が、顔を上げた。
「あれ? なんでおパンツ見せてんの?」
「いや……そのようなつもりは」
拾うためにかがむと、シャツに胸がつっかえた。布がおかしなたわみ方をしていて、動きづらい。
なんだこれは、今日はどうしたのだ。まさかまた洗脳の魔法をかけられているのか。
「春、お前は本物か。夢に出るもののけなどではないだろうな」
「はへ? また疲労でおかしくなってる系? でも睡眠時間増やしたんでしょ、あとお休みも」
「疲労など……ない。以前の倍も休息を取っている、身体は万全だ……ぁぅ……」
かすれた息が喉を出ていった。外の空気は冷たいのに、内側の空気は妙に熱い。
首を傾げて、春はこちらを見ていた。ふいに「あ」と小さな声を出した。
「兄姉さまそれ」
春はリンの胸元を指さした。
「それ、だと……ん」
シャツのボタンを、二つ分もかけ違えていた。ねじれによる隙間から、白いブラが見えていた。
直そうとするが、指がうまく動かず、なかなかボタンがはずれなかった。そうしていると春が近づいてきた。
「もぅ、忍びのくせにぶきっちょなんだからぁ。ほうらちょっと手どけ――あちっ」
リンの腕に触れた瞬間に、春は手を引いた。途端に顔が引き締まって、今度は首筋に触れてきた。
手のひら全体で首を触られる。その触れ合った部分が、また、やたらと熱かった。
「脈が早い。息も荒いし、体温なんて湯たんぽみたいだよ」
「ゆた……なに……? ふぁ……べたべた触るな、くすぐったいぞ……」
「はいお口開けて」
顎を引っ張られて、口内を覗き込まれた。
「うわ、真っ赤」
押しのけようとするのに、腕が上がらない。
今度は自分の顎を両手で挟んで何やら考えている春が、二重に見えた。
時計を見ると、針がいっぱいあった。まだ約束の時間には余裕があるような気がするが、早く行って、待っていてあげないと、しかし今は一体何時だ、6時になって7時になって、まだなっていなくて――
「決めた」
パチンと春が手を叩いた。
胸がくっつきそうなくらい春は身体を寄せてきて、目の高さがぴったり重なった。
「制服脱いで、今すぐ。そしたらお布団」
「な、ならん……これから雫に会いに……いや学校に行かなくては……」
部屋の出入り口へと向き直った。玄関に向かおうとして、床に落ちたスカートに足をひっかけた。前のめりになって倒れそうになったところを、春に支えられた。
「だめ。きっと無理が祟ったんだよ。その風邪が治るまで学校も護衛もお休み」
「風邪だと……ばかにゃ……そんなことで休めるか……」
腹にかかっていた春の腕を押しのけた。片手でスカートを拾って、一歩踏み出した。
ぜぇというざらついた呼吸音が聞こえた。
後ろの方で、春は言った。
「体調管理が出来てないって師父様が知ったら、なんておっしゃるかな。下手したら護衛任務から外されるかも」
足の動きが、止まった。
「なにが……言いたい……」
「病人が外を歩いてたら、春の目は気づかないわけないけど、家で寝てるだけなら、もしかしたら見落としちゃうかもなあ、って」
口に力が入って、奥歯が擦れた。重い頭を動かして、振り向いた。
「ならどうしろと……雫を一人にするわけには……」
春の顔に、微笑が浮かんだ。
「安心して、春はこれでも諜報活動のプロなんだ。兄姉さまに扮するくらい朝飯のトースト前だよ」
背中側で腕を組んで、春は胸を張っていた。




