第50話 雫とした
橙色の常夜灯を、ベッドの上から眺めていた。マットレスの右側にはすぐ床があって、左側には雫の肩があった。
心臓の音は目立たなくなって、静かな息遣いだけが聞こえていた。
重ね合った手は、布団よりも少しやわらかい。
目を瞑ると、意識が沼へと沈んでいきそうになった。力が抜けて、全身がぬくもりに包まれている。落ちる、消える、このまま……けれどもう少し、少しだけ。
閉じたまぶたを、剥がすようにして開いた。
「まだ、起きていますか」
左耳に、雫の声が届いた。
「うん、起きてるよぉ。すごく眠いけど、んふぅ、もうちょっと」
「それはよかった。落ち着いて話がしたいと、思っていたものですから」
音のない部屋。雫が黙ると、静けさが耳鳴りのようにもなる。
身動ぎするだけで、布のこすれる音がよく聞こえてきた。
「なぁに? リンちゃんはいつも落ち着いてるように、見えるけど」
「落ち着いてなど、いません。雫といればいつも内心はてんてこ舞いです。ですが、不思議と今だけはそれがありません」
「そうなんだ」
つぶやくように言って、雫は小さな笑い声を漏らした。
どこまで、どこまでを口にするか。際限はあるのか、ないのか。
力のない顎と口が開いていった。
「はにゃ」
おかしな声が、漏れた。息と混ざった、甲高くて締まりのない音、ただの音。
雫が顔をこちらに向けたのがわかった。
「へ?」
「失礼、喉の調子がいささか……んふっ」
咳も出た。鼻をすすると、水音がした。
「げふっ、おほっ……おかしいれす、伝えたいことがあるはずなのですが、身体がどうにも、おかしい」
言葉が詰まって、そのたびに軽く胸が跳ねた。
言おう、ひとつ言おう、それだけ言おう。ちゃんと言おう。
言った。
「おかしい……おかしい……雫と出会えて嬉しいです……げふっ」
ひときわ大きな咳が出た。何度も続いて、拳で口元を押さえた。
喉が炎症を起こしている。ヒリヒリしている。
横から雫の声が聞こえる。
「え、えーと、どうしたの? だいじょぶ? お水飲む?」
「いえ、結構。胸が荒れているだけです。あの、それで、その、人と一緒に寝られるのは喜ばしいことなのだと、思っています、嬉しいです、心からそう思います」
胸が熱い、目が熱い、いつの間にか熱い。首周りも円形に熱い。頭の中は咳で乱れている。ぐちゃぐちゃに神経の配置がズレている。
「リンちゃん? なんか……うん、わたしも一緒にいられて嬉しいよ」
困惑と軽い焦りが混ざったような、そんな声。寝る前だというのに、申し訳ないことをしている、これは。
「ですからっ……ですから、ん、んんっ」
鼻息が吹き出す。喉から気のない声が漏れる。
落ち着いている。心は落ち着いている。なにもおかしなことはない。
左手の指が、雫の指に絡んだ。上から被せるように、握っている。
ぴくっと雫の背中が跳ねた。
「ん」
上を向いたまま、言った。
「やはり、この心は、東山雫というお方を愛しているのだと確信しました」
身体を横に向けた。暗闇の中に、愛する人の顔が浮かんでいた。
「返事をお聞きしたく、存じます。雫にとって、某は、なんですか」
雫は眉を上げた。じっとこちらを見つめて、一度口を開きかけて、すぐに閉じた。
慎ましやかな笑顔になった。雫が笑った。笑っている。こっちを見て、笑っている。
「愛してる……っていうと、なんかちょっと恥ずかしいね。でも、うん……好きだよ、大好き」
「しからば、お返事は」
視線を逸らすように雫は目を動かした。やや下を向きながら、ささやくように言った。
「えへへ……こういうのってなし崩しでもいいと思うんだけどなあ……でも」
熱っぽい吐息が、パジャマにかかった。薄い布を通り抜けて、温度が皮膚に伝わってきた。
雫が顔を上げた。顎を下げて、上目遣いで見てくる。
「わかったよ、えと、ね……告白ちゃんと受け止めます、わたしもリンちゃんのことが……ことを、愛してるから」
ほぉっとぬるい息が出て、締まっていた腹部が緩くなった。
強張っていたらしき顔から、力が抜けた。頭が浮ついて、脳から角がなくなった。
「雫……」
つぶやくと、雫は滲み出すような笑顔を見せてくれた。頬の真ん中が、ほんのりと赤くなっていた。
「んっ」という声を漏らして、雫は目を閉じた。
口が、突き出されるような形になっていた。
ぴったりと閉じたピンク色。闇の中でもつややかな、雫の唇。
したい、今度こそ。
背中に片腕を回した。力を入れずに、抱き寄せる。
顔を、顔に近づける。
唇と、唇を合わせる。押し付けない。ほんの一瞬触れるだけ――無理だ。
「んぅ……」
唇が重なって、体温が、粘膜が、ひとつになった。重なる鼓動が20も鳴るまで、そうしていた。
口を離すと、荒い呼吸をしながら、雫は言った。
「はぁ……もう、一回」
返事もせずに、抱き寄せた。
そんなことを何度か繰り返して、気づけば眠りに落ちていた。
夢をいくつも見た。雲の中にいたり、ちょうどいい温度の湯に浸かっていたり、足を揉まれていたりもした。
そのどれにも、いかなるところにも、雫と繋いだ手があった。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
リンちゃんがようやくスヤスヤしたところで、四章完結となります。
なんだかとてもいい感じの終わり方ですが、まだまだお話は続きます。
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