第49話 これ以上手を伸ばせば、どこまで行ってしまうのだろう
雫の家にお邪魔して、風呂と夕食を済ませた。寝支度を整えて、二人で部屋に戻ろうとしているところだった。
パジャマ姿の背中を見上げていて、思わず声が漏れた。
「――好きだ」
つぶやくと、先を行く雫が振り向いた。
ぽかんと口を開けて、時間が止まったようにこちらを見下ろしていた。
「……と、お伝えしたのはいつ頃だったかと考えていました。重ねた日数はそう多くはないはずなのですが、どうしてかずっと昔のことのように感じられます」
振り向いたまま、雫は少しだけ顔を上げた。
「えぇ、記念日忘れちゃったの? ひどいなぁ」
「いえ、日付は記憶しています。いますが……」
「いますが?」
「思えば、まだ返事をもらっていないのではないかと、そのような気がしました」
「え?」と漏らして、雫は目を上に向けた。
瞳に、電灯の白い光が反射していた。うーん、と喉を鳴らして、雫は考えにふけっていた。
数秒間悩んで、顎に指を当てて、また悩んで、それから雫は言った。
「マジ?」
「まじ……かもしれません。聞き逃しは、無いはずです」
「でもぉ、わたしずっとリンちゃんの彼女だよ。なんか急だね、もしかしてぇ、寂しかったとか?」
雫から、目を逸らした。手すりや、小窓などを見る。雫の家だ。一般家庭、特別なものはなにもない。
「寂しさは……わかりかねますが。ただ……正式な契ではないのかもしれないと、思いまして、それだけです、偽りなく、間違いなく」
雫はぱちりぱちりとまばたきをした。様子のおかしいものを観察するような目で、こちらを見ている。視線に胸を触られるような感じがした。
タンっと音を立てて、一段上った。もう一段。雫の真横まで、行った。
「ちょ、ちょいちょい、え」
1人分のスペースしか無いそこに身体をねじ込むと、雫は身をよじった。
リンは足元を見ながら言った。
「……冗談です」
「ふぇ?」
「他愛のない会話をしてみようと試みた結果、今の言葉が口から出ました。忘れてください」
階段を上る。雫を追い越して、二階にたどり着く。薄暗く、狭い廊下。一番奥の扉、雫の部屋に向かった。
床に足をつくたびに、骨を硬い振動が伝わった。
「ちょちょちょっとリンちゃん? なんか、どしたの?」
背後から、雫の声が聞こえた。距離がわからない。階段の下にいるのか、近いのか、どちらだ。首が動かず、振り向けない。
「やっぱり怒ってる?」
「そのようなことは、決して。ただ、中身のない会話です、それだけです」
どうしてか、目と唇が乾いていた。
雫が来てから、部屋に入った。
中腰になってベッドシーツを整えていた雫に、言った。
「床で構いません」
雫は振り向いて、にたぁとした笑顔になった。
「はいだめぇ。一緒の布団でごろにゃあって約束だよぉ」
広くないベッド。シングルサイズ。枕はひとつ、掛け布団もひとつ。答えはひとつ。言葉は嘘ではない。知っている。
寝るのだ、あそこで。
「冗談です。約束はお守りします」
「え、あ、また。そうなんだ」
ベッドの側に移動して、雫を見つめた。早くなる息を、肺の内側へと押し込めた。
半身の体勢でいる雫。またぽかんとしている雫。その手は、宙ぶらりんになっている。その身体は、無防備でいる。
「リンちゃん……? なんか、なんでそんな、真面目っぽい顔?」
手を引けばどうなるのだろう。
押し倒してしまえば、どうなるのだろう。
そのとき雫は、雫は、どんな顔を見せてくれるものか。
「雫」
肺を荒らすような粗い息が、喉を通っていった。舌先が、唇の内側を舐めた。
ゆっくりと手を伸ばした。指先が無地のパジャマに触れそうになる。雫は無垢な瞳でそれを見ている。なにもわからずに見ている。
目の焦点がズレる。胸の高鳴りが、蘇ってくる。
雫、雫雫、雫、あなたに――伸ばした指先が、丸まった。
拳を作って、握りしめた。すぐに力が緩んで、全身も脱力した。
左右に首を振った。ため息の如き息が出た。
「やはり忍びゆえに……」
言葉を飲み込んだ。前髪を払ってから、雫に向き直った。
「用を足してきます。すっかり忘れていました」
雫の横を通って、部屋の外に出た。
足の裏がフローリングの冷たさを感じると同時に、声が聞こえてきた。
「忍びだからトイレ行くんだ」
なんのことはない、つぶやきだった。




