第48話 歯型の付いたクッキーを食べるのは、普通ならば嫌がるはずだ
雫とは、どこまでいくのだろう。
恋人とはなにか。風呂に入ることか、同じ布団で寝ることか、手を繋ぐことか。
雫はどう思っているのだろうか。目の前にいる、相手のことを。
でぇとでなにかがわかるのだろうか――
「はい、あーん」
目の前に、フォークに乗ったマロンケーキの切れ端があった。黄色いクリームのたっぷりついたそれを、雫は差し出してきていた。
「ど、毒見ですね、かしこまりました」
口を開ける前に、周りを見た。開放感のある、モール内の喫茶店。寒色で統一された店内で、大勢の人間が茶を楽しんでいる。
カップル、一人客、友達同士、視線はこちらに向いていないのに、なぜか見られているような気がしてならない。
「あーん、はむ……これはなかなか」
口を開けると、火照った鼻頭に冷たい空気があたった。
甘い……甘い、味はよくわからない、甘いのだと思う。
「美味しいです、とっても。雫は細かいところのセンスがいい」
丸テーブルに肘をついて、雫が笑っている。嬉しそうに、こっちを見ている。
「そうだ、ぜひこちらも……失礼」
リンはティーカップの隣に置かれた抹茶クッキーを手に取り、一口かじった。
酸味も苦みもない。舌に痺れもない。胃に落ちる残骸に魔力を纏わせる――異常はなさそうだ。
「どうぞ、よろしければ……一口」
雫の顔からすっと笑顔が引いて、短く吐息を漏らした。
「ぁ……」
軽く目を見開いて、差し出したクッキーを見つめている。無言で、集中しているように見える。
「しず――も、申し訳ありません、とんだ粗相を……半分に折りますゆえ、お待ちを」
「あ、待って」
クッキーを持つ手を、雫に掴まれた。どこか湿っぽい指が、肉に沈んだ。
そのまま、腕を引っ張られた。雫はやや顎を突き出して、ちょこんと開いた唇でクッキーを咥え取った。
「んっ……んぅ」
舌で器用にすくいとって、雫はクッキーを口内へと迎え入れた。なにか壊れ物を扱うように、ゆっくりと咀嚼している。
雫の頬が緩み、徐々に笑顔が戻ってくる。
「はぁ……おいしい、リンちゃんのクッキー」
雫は手元のカップからコーヒーを啜って、小さな息を吐いた。
その余裕ある立ち居振る舞いを眺めている間、ずっと、どく、どくっと胸が鳴っている。会話が途絶えて静かになると、肌の些細な震えすらも感じられる。
突っ張ったつま先が浮いて、トンッと床を叩いた。
「あの、雫……いえ、その……」
もしかして嬉しいのですか――その言葉が、胸の中でつっかえた。
嬉しいはずがない。人の歯型が付いた食べ物を渡されて。聞いたらなんと言われるか、困った顔をされるかもしれない。だが、あの表情、あの頬の動き、あれは、あれは。
「んー、どしたの?」
「ほ、本当になんでもありません。気に入っていただけたのなら、なによりです」
「えへへ、抹茶食べそうな顔して抹茶食べてるのかわいいよねぇ」
「雫こそマロンですよ、マロン、よくお似合いだと思います」
ぐりゅぐりゅと口が変な動きをして、声が出にくい。唇が狭くなって、音が崩れてしまう。
「なにそれぇ、嫌味ぃ? お世辞ぃ? クリクリお目々の雫ちゃんとか?」
「その、トゲの中に甘味を隠しているのが……らしいかなと、思います」
「うわ、意外とちゃんと考えてたパターン」
一瞬だけ眉をひそめて、雫はまたあははと笑い出した。
カフェの後は、雫の希望でペットショップに行った。
ガラス越しに子犬を見つめて、目を輝かせていた。思わず感嘆の声を漏らすような調子で、いつもよりもこころなしか無防備に見えた。
けれども雫は、ふと笑顔を消してこんなことをつぶやいた。
「この子達も、帰る家ができるのかな」
「人気のある犬種ですし、健康な幼体ならば買い手は見つかるのではないかと」
「そっか。ならいいけど」
これまで明るかった声が、その一瞬だけは冷めていた。
しばらくショーウインドウを眺めてから、雫は振り向いた。笑顔に戻っていた。
「いいなぁ、わたしもワンちゃんと暮らしたい」
「犬がお好きでしたか。ではどうでしょう、もしよろしければこれまでの迷惑料として子犬を一匹、贈呈しましょうか」
「え、ほんと、欲しい……って言いたいところなんだけど、ほら、護衛対象が増えちゃうからさ、今回は遠慮させてもらおうかな」
どんよりと、胸が重くなった。
「そうですか……」
確かに、大切なものが増えればリスクになる。敵方に利用されることも考えられる。たとえリセットされるのだとしても、やはり雫はそれを望まぬか。
「ねっ」
弾むような声をかけられて、伏せそうになっていた顔が上がった。
「一応聞いておくけどさ、それリンちゃんのツテみたいな? 犬種は? どんな子がいるの?」
「はい、獣を操る術もいくらかあるものですから、里では犬の繁殖も手掛けております。具体的には土佐犬やグレートデーン、ピットブルなどが――」
「あ、うん、やっぱり気持ちだけ貰っておくね。次はお洋服見に行こっ」
手を引っ張られた。前のめりになりながら、雫の後を追った。
それから服飾店を回った後、映画館に向かった。歩調を合わせて、お喋りをしながら歩いた。騒がしく乱雑なモールの中にあっても、雫の右手だけはずっと側にあった。
なんの映画を見るか迷って、調べた通り恋愛物を選ぼうとしたら「リンちゃんの好きなのがいい」とリクエストが入ったので、戦争映画を見ることになった。
ベトナム戦争の悲惨さを描いた重厚なドキュメンタリー風映画で、これがなかなか唸らせられる出来をしていた。
上映が終わる頃には雫は熟睡していた。肘掛けの上で重ね合ったままのその手から、すっかり力が抜けていた。やや腰をずらして、脚は通路にまで投げ出されていた。
「ふふ」
人に色々と気遣ってくれながら、その実は自身も密かに疲労を溜められていたのか。つくづくやさしいお人だ。
忍びなどに構ってくれて、好きだとも平然と口にして、このような方は二人といない。
「雫……」
胸の高鳴りが、今でも続いている。ズキズキと、痛みを伴わない虫歯のように。
好き、という気持ちは、もしかしたら――
「入れ替えーです」
係員に声掛けされて、雫はぱちりと目を開けた。
「ふぁあ、いやぁ面白い映画だったね」
寝ぼけ眼のまま、にへっと雫は笑った。
「そ、そうですね」
突然、顔中が熱くなった。冷房の効いた劇場にいて、暖房を当てられているようだった。
今日一日、よく響く鼓動は収まりそうにない。
映画館を出て、存分に語り合いながら食事などをして、ショッピングモールを出た。
帰路につけば、その後は雫の家に泊まることになっていた。
せっかくの夜は、少し、ほんの少しだけ、いつもと違う話をしてもいいのかもしれない、と思った。
なぜかは、わからないが。




