第43話 ソファと膝枕の心地は、後者のほうが優勢である
だらぁんとソファから腕が垂れていた。すべすべとした指先が、重力に引っ張られている。画面を消したスマホは、隙間に落ちてもう姿も見えない。
腰を中心にクッションに沈んでいた。肩、足、力が抜けている。茶色いリビングは、一枚膜がかったように見えた。
肺から出る、生ぬるい吐息。垂れそうになる、口のよだれ。重いまぶたは何度か閉じて、そのたびに時間が飛ばされた。
ぼぉっとぼぉっと頭の中が白い。肉という肉が柔らかな座面に吸い寄せられて、くりぃむのように溶けている。雫の膝の上のような……。
「ぬぅ……」
困った。これは3時間どころではない。これは、動けない。動けないのだが、もう九時になる。そろそろ深夜の警護に向かわなくては。
「これを毎日は……まずい……にゃん」
寝言のように力のこもらない声が出た。
こんなことを繰り返せば、ソファと一体化してしまう。なにか代案を考えなければ、なにか。
だらだらを遂行して、かつ雫が満足するなにか。それは……それは、あるかもしれない。
難しいことはない。忍びでありながら、雫の護衛でありながら、女子高生であればいい。
だとしたら、提案してみる価値はある。休みを別の形にしてもらうべきだ。
「ならば……気を入れなければ……はっ」
カッと目を見開いた。身体を転がして、フローリングに両手をついた。反動をつけて飛び上がり、膝を抱えて空中で一回転する。
地面に足をつくと同時に、魔力を練って忍び装束を纏った。
大窓に近づいて、一気に開け広げた。軽く首を回して、言った。
「少し早いがこれより警護に出る。あとは任せろにゃん」
ベランダの手すりに上って、迷わず踏み切った。
『うっわ、変わり身早すぎでしょ』
ため息混じりの声が聞こえてきたのは、耳に装着したインカムからだった。
屋根を渡って、1分もしないうちに雫の家へとやってきた。明かりが付いているのを確かめてから、拳骨で窓を叩いた。
トンとクレセント錠が回って、まもなく窓が開いた。
「あれぇ、リンちゃんだ。そっちから来るなんて珍しいね、夜這い?」
「……いえ、お願いがあって参りました。少々お時間よろしいですか……にゃん」
こちらを見つめて、雫はぱちとまばたきをした。
「へぇ、ほんと珍しいね。いいよ、おいで」
「感謝します」
頭を下げ、足袋を消して、中に入った。
雫はベッドに座った。パジャマ姿。肌と髪に普段よりも艶がある。風呂上がりに邪魔してしまったか。
「おくつろぎのところ申し訳ありません。直談判せねばならぬと思い、失礼を承知で訪ねさせていただきました、にゃん」
「いいよ、いいよ、自分ちだと思って。あ、ていうか」
雫はぽすんと手を叩いた。
「そうだよ、これからも中にいたら? 別に外にいる必要ないよね」
カーペットに正座する。雫がまたおかしなことを口走りだした。落ち着け、ペースに流されるな。そうではない。
「はぁ……魅力的な申し出ではありますが、本日はそのような用件ではなく――雫?」
雫はベッドから立って、部屋のドアを開けた。隙間から顔を出して、声を張り上げた。
「おかーさーん。リンちゃん泊めていいー?」
やや遅れて、返事がやってきた。
「えー、急だね。いつ来たのー? まあいいけど。布団はー?」
「一緒に寝るから平気!」
答えて、雫はベッドに戻った。「やりぃ」と小声でつぶやいていた。
笑顔になって、パタパタと足が動き出した。肩ごと、頭も振っていた。
「で、で、それでぇ、お話しって? そうだ、お風呂はいる? いいよ、二回目でも。てかご飯食べた? さすがに食べちゃったか、じゃおやつ、アイスとかあったかなー、そうそう、パジャマも貸す? その格好じゃ窮屈でしょ」
中腰になって、雫はまたどこかに行こうとした。
「落ち着いてください。お気持ちはわかりました、それは後で聞きます。その前に、一度真剣な話がしたいのです……にゃん」
「んー、やっぱ今日はなんか変だ、わたしに要求してくるなんて」
腰を上げたまま、雫にじろじろと見つめられる。
膝の上に置いた拳を、反対の手で握る。重なった視線を逸らしそうになって、すぐに戻した。
「ま、いいけど、ていうか嬉しい。うふふ、それで、なぁに?」
ぐっと顔を突き出した。
「だらだらの件です。実行したところ……雫のおっしゃっていたことが、ようやく、僅かながらも理解できたような気がしました……にゃん」
浮いていた腰が、ベッドに降りていった。雫のほっぺたが丸くなった。
「そっか。魔法少女だって忍者さんだってリンちゃんだって、ちゃんとお休みしなきゃだめだよって、わかってくれたんだ」
「はい……その……そのですね……」
拳の上で、指が暴れた。真っすぐに伸びたそれが、ぱち、ぱちと手の甲を叩いた。
組んだ足の指が、もぞもぞと動く。下腹部に、熱の塊が現れる。目を瞑る。開ける。
雫を見る。
「ソファに……膝の感触と同じものを見出しました……あれは……あれは……」
顔が下を向く。下唇が、歯に挟まれる。
「あれは?」
顔を上げる。雫が微笑んでいる。その目が、その顔が、こっちを向いている。
「……いいものです。長らく忘れていた感覚を、思い出したような……そんな心持ちになりました。その……ですから……」
顎に手を置いて、雫は指先を丸めた。
「毎日だらだらするって誓いに来てくれたの?」
ぐるりと目を回す。右を見て、左を見て、最後にまた雫を見た。腹の熱が、いつの間にか肩甲骨のあたりに上がってきていた。
「いえ……身が持たないので……代案を提示しに参りました」
微笑んだまま、雫は固まった。無音の時間が三秒ほど続いてから、口だけが動いた。
「は?」
雫は、抜けた声を出した。




