第32話 あなたが悪い夢を見ないでいられるのなら、命を賭してでも
前方3メートルほどのところに、敵が浮かんでいる。
全身にジャラジャラと宝飾品を垂らした、肌の露出が多い銀髪の女。そのひとつひとつが太陽光を反射して輝いていた。
銀髪は胸の前で両手を合わせた。
「思った通り、腕が立つ。流石は手練れのくノ一、ではないか、忍びよ」
伏兵の気配はない。増援を送り込んでくる様子もない。後はヤツだけか。
銀髪は小刻みに唇を動かした。呪文のような音の羅列が、薄っすらと聞こえた。
「む」
鼓膜に、触られたような感覚があった。
直に触れられているように、銀髪の声が流れてきた。
「案ずるな忍び、我らは敵ではない。立場は違えど、あの少女という一つの線で目的は繋がっている。そうだろう、違うか、我々は同志だ」
耳鳴りがした。ぐらぐらと目玉が揺れた。リンは構えた短刀を、僅かに下げた。
「ようし、それでいい。わかるか、そちはその類まれな才能を搾取されている。ろくな報酬も休暇も与えられず、ただ身分に従って、奴隷として使役されている」
「奴隷」
「そうだ、奴隷だ。夢の世界でのことを思い出せ、あれは慈悲だ、自己を取り戻すための儀式だ」
短刀を降ろし、切っ先を地面に向けた。見開かれた銀髪の目を、見据える。
一歩、二歩と、前に出る。銀髪の声は肉を震わせ、体内へと落ちてくる。
「こっちに来なさい。そう、そのまま。我らは、そちを一人の人間として尊重し、同志として迎えよう。望みがあるならなんでも言うがいい、願いは叶えよう」
「……そうか」
銀髪に近づいた。会話の合間に呪文を唱える口が、歯のない老人のように動いていた。
視界がずれて、目の前の顔が三原色に分裂した。色が濃く、暗くなっていく。頭が揺れる。真っ直ぐに敵を見つめる。
「……なら、ひとつだけ聞かせてもらおう。あの少女は、雫は一体どうなる」
敵は叩いて息を出すように、笑い声を弾ませた。
「心配せずとも、乱暴な真似はせん。そちと同じく、その能力を存分に活かし、多くの人に愛される幸福な人生を送るのよ」
「なるほど、それならばいい」
敵の口角が上がった。ゆっくりと両手を広げて――この瞬間だ。
「そんなものは不要だ」
「なっ」
短刀を振り上げた。疾風が通り過ぎるような音がして、漆黒の炎が線を描いた。
「なぜっ……またしても……」
釣り糸が切れたように、銀髪はその場に落下した。地面に横たわって、動かなくなった。
リンは視線を切って、頭上に顔を向けた。ヘリは、雫を機内に収容することもせず遠ざかっていく。宙ぶらりんの担架は、みるみるうちに小さくなっていった。
「雫っ。ヤツら、腫れ物扱いか」
遠い。間に合うか、違う、間に合わせなくては。
忍び装束を纏い、リンは地面を踏み切った。足場を形成して、駆け上がる。
「ちぃ」
駆け上がるが、ヘリが速い。1進むたびに、2離される。これでは――いや、まだ手はある。
地上に向けて、叫んだ。
「アリスっ、越谷まひるを起こせ! あのヘリを狙撃させろ!」
ローター音をかき消すほどの大声が聞こえてきた。
「ワッツ!? まさかリンさんから提案してくるなんて、本当にいいんですか?」
「いいもなにもあるかっ、早くしろ!」
地上の様子を窺うと、アリスが人差し指を突き立てていた。
「イエスイエスイエスッ、準備しておいて正解でしたっ。まひる、容赦なくやっちゃってください」
傍らに立っていた越谷まひるが、落ちていた敵の銃を拾い上げた。
「わかりましたけど、うぅ、こんな粗末なライフルだなんて……」
「やれるかっ!?」
越谷まひるが、声を張り上げた。
「やります! そのかわり、殺さないでくださいね、本当に!」
「ああ!」
片手で銃を握り、越谷まひるが腕を大きく振った。全身が一瞬光の球体に覆われ、次の瞬間には、純白のフリルを身に纏っていた。
片膝を着き、越谷まひるは銃身を空へと向けた。
一瞬の静寂。
乾いた銃声が、轟いた。
銃身がひしゃげて、光弾が発射される。リンの真横を飛翔していって、ヘリのテールローターへと直撃した。
「当てるかっ、射撃の腕は確かなようだ」
「はやく、墜落しちゃいますよ!」
ガクンっとバランスを崩して、ヘリは大きく高度を下げた。
「雫!」
魔力の足場を利用し、雫へと接近する。ヘリは墜落を免れようとして、空中で暴れていた。
あの位置なら、間に合う。全速力で駆け抜ける。風を切る、身体すらも後方に置き去りにする感覚。膝の関節がミシミシと音を立てる。
跳躍を繰り返すたびに、めまいがする。あと500メートル、300、100――50。
「おおおおおおっ」
膝を抜き、腰を落とし、足をバネのように使って、最後の一歩を踏み抜いた。
担架に手を伸ばす。縁に指先がとど、かない、ヘリが移動する、雫が遠ざかる。届く、届く、届かせる、あと一歩、もう一歩。
無理に踏み出すと、ぶちぶちとふくらはぎが鳴いた。
「しずくうううぅ」
とど――いた。
伸ばした指先が、担架の縁へとかかった。
身体を押し上げ、雫の拘束を解除する。
雫を、抱き寄せる。腕に力が入った。目の内側に、なにか溢れそうなものが上がってきた。
眠っているが、生きている。呼吸をしている。ここにいる。誰も消えていない、敵も味方も、雫も。
1秒間も、抱きしめていた。ヘリがまた高度を下げて、大きく揺れた。
ぱちりと雫が目を開けた。
「ん……ぇ、ぁリンちゃん、おは――え、なにこれ、え」
「なにも心配いりません。某が必ず地上までお連れします」
「う、うん……あれ、目、濡れてるよ、大丈夫?」
グミのような指先に、目元をなぞられた。足に、腕に、顔に、力が蘇った。
「今ので大丈夫になりました。さ、ここから飛び降ります、掴まっていてください」
首に腕を回された。裸の雫を抱いて、その場から飛び降りた。約200メートル下方に、海岸沿いの森林が見えた。
一直線に落ちていく。速度は乗るが、着地するくらいの力はある。これで――頭上に圧迫感があった。前に抱いていた雫の顔に、影がかかった。
「上、うえ、落ちてくる」
「なにっ、コントロールを完全に失ったか、あるいは自爆、そんなことよりこの場を、ぐぅ」
どうする、どうすればいい、叩き斬れるか、回避できるか、距離が近い、猶予は3秒もない。だめだ、迎撃は間に合わない。回避も確実性がない。
守り切るしかないか、身を挺してでも。
雫に向き直った。
「これから、命を賭してあなたをお守りします。ですが、死ぬつもりはありません、必ず生き延びてみせます、ですから、悪い夢は見ないでください」
圧が迫る。機械音が近づく。雫を、強く抱きしめる。
「だめっ、リンちゃ、ぁ……なにか、くる、これって」
雫は、リンの背後を見た。
「ベリィデンジャラス! ですけど、悲劇のヒーローになんて、ぜえええったいさせませんからぁ」
陽気な女の声が、空いっぱいに響き渡った。
緑色の粒子が舞った。
ヘリの胴体が二つに割れた。
ずれたその隙間から、鎧を身につけた金髪の女が飛び出してきた。
「きさっ――」
「いいとこどりでーす!」
騎士――アリスに、雫と一緒に抱きかかえられ、勢いを増して森林へと落ちていった。
上空で、四尺玉のような爆発音が轟いた。




