第30話 大好きと言われると、任務のことなど忘れてしまいそうになる
サンオイルのようにボディーソープを手のひらに伸ばして、雫の脇腹に触れた。
指をすべらせて、小さな円を描く。泡が浮いてきたら、それを脇の下まで伸ばした。
「やぁ……くすぐったいよぉ」
雫は内股になった。脇の深いところに触れるたびに、ぶると皮膚が震えた。
リンの首筋に汗が浮いていた。細い息が、一定のリズムで口を出る。血液が頭に上って、目の前の柔肌がなにか遠くに見える。
「う、腕を上げてもらえると、助かります」
「はぁい……」
毛の薄い脇から、二の腕、前腕へと泡を広げる。洗いながら肌を間近で観察するが、目当てのアザは見つからない。
溜まった唾を飲み込む。腹の底に、重いものが沈んでいる。
「では、腹部と胸を洗わせていただきます」
なぜ、こんなことをしているんだ。雫はただの一般人ではないか。敵ではなく、護衛対象なのに。
掌底を腹に沈ませる。押し当て、回して、ぬめったものを広げていく。
指が肉に食い込むたびに、雫はほんの少し身体を仰け反らせた。
「ぁ……親以外に洗ってもらうなんてはじめて……人の手ってこんなに柔らかいんだ……」
くすぐったそうに、雫は喉を鳴らした。
ヘソに指を入れると、びくんっと身体が跳ねた。
「ひゃっ」
「……失礼」
泡を取り除いて中を覗いたが、変わった模様はなかった。
目が回る。歯に力が入る。早く終わらせなければ、早く、早く。
上向きに手のひらをすべらせると、膨らんだ胸部の下側に泡が集まった。
「ねえ……リンちゃん」
手を広げて、慎重に胸の表面を触る。指を沈ませないように、揉んだりなどしないように、力を抜く。
慎重に、慎重に泡を広げていく。丸々とした下側、なだらかな曲線の上側、少し張りのある側面、それら全体にゆっくりボディソープをなじませる。
額から汗が垂れて、目に入った。ピリッとした痛みをこらえて、胸を凝視した。
どこだ、どこにある、あってくれ。それで任務は果たされる、さもなければ――目が、下腹部に向いた。閉じた股を、泡が覆い隠していた。
「リンちゃん、リンちゃんってば」
すぐに視線を胸に戻した。
そっちはだめだ、それ以上はダメだ、下はダメだ、許されない、本当に腹を切るしかない。雫は、雫にそのようなことは、絶対にしてはならない。
指先に力がこもって、乳の弾力に弾かれた。視界がチカチカと明滅している。呼吸が荒くなっているのがわかる。口の中が乾ききっている。
言おう、一線を越えなくてはならないのなら、ちゃんと雫に伝えよう。
そうしなければ、もう、隣にはいられない。
「もぅ、なんで無視ぃ。こーら、えいっ」
なにか柔らかいものが、胸骨に触れた。胸の真ん中を、押された。
凝り固まっていた肩から力が抜けて、反射的に顔が上がった。
「やっと気づいたぁ。ねぇ、なんでそんな怖い顔してるの、全然嬉しそうじゃないよ」
雫は、泡の付いた顎を、ほんの少しだけ傾けた。目は半分閉じていて、眉は下を向いていた。
「ぁ……申し訳ありません、慣れぬもので緊張を……」
「違うよね。またなにか考えてたでしょ、任務のこと? それともこれが任務?」
頭に溜まっていた血が、すっと降りていった。口を開いても、空気が入ってくるだけで、声にならなかった。
脱力感に、襲われた。
こうなって、しまったか。
某は人としての出来が悪すぎる。
自分のものではないような口から、機械的に声が出ていった。
「……お察しのとおりです、身体検査を目的としていました。弁明の言葉もありません」
「そっか」と雫は言った。
乳にかけていた手が、力を失った。つるりと滑り落ちて――手首を掴まれた。
両腕ともに強く握られて、胸の位置に戻された。
「し、雫……?」
弾力に反発して、手のひらが乳に沈んだ。雫は力を入れて、わざと自分でそれを潰させるような真似をした。
雫は、口元を緩めた。暗かった顔に、一筋の光が差し込んだ。
「なんだぁ、だったら最初から言ってね。見たいところがあるなら、どこだって見せてあげるよ。お胸? 口の中? それとも、違うところ? 身体の中は、ちょっと痛いからやだけど」
「な……なぜそのような、これはあなたへの裏切りです」
白い歯が、見えた。
「一生側にいてくれるんでしょ? だったら、任務だって利用しちゃえばいいよ、板挟みになってるのわかるし」
さらに、手を押し込まされる。指が皮膚に埋もれて、袋は破裂してしまいそうだった。
「リンちゃんが辛そうにしてるの、やだもん。だからね、ちゃんと言って、どんなえっちぃことだって相談に乗るから、うふふ」
「なぜ、某をかばってくれるのですか。あなたの善意を利用していたのも、同然なのに」
「えー、決まってるじゃん」
雫は両手を大きく広げた。腕を回してきて、指先がリンの背中に触れた。
ぴと、ぴと、と水の膜が潰れて皮膚と皮膚がくっついた。
「うっ……」
胸から手が外れて、前のめりに倒れる。回された腕が、背中を覆ってしまう。ぐぐぐっと腕が狭まって、抱き寄せられる。胸と胸が、肌と肌がくっついた。
やわらかいもの同士が触れ合って、潰れてひとつになった。ぽっかり突き出した先端が、石鹸でぬめる肌でこすれた。
「リンちゃんのことがだーいすきだから」
「は……」
胸に溜まっていた重いものが、粉微塵に砕け散った。
室温よりもやや高い体温が、全身に染み込んでくる。
「雫……雫は……某を許してくれるのですか……」
耳元で、敵意のない声がささやいた。
「うん。その代わり、もうひとりで抱え込まないで、それだけ約束」
喉が詰まる。鼻の奥が痺れる。声が、枯れている。
「はい……承知しました……」
背中に腕を回して、痛くしない程度に力をいれた。
ああ、最初からこうすればよかった。
やはり某は、愚か者だ。
身体を離してから、すぐに雫は言った。
「それで? どこが見たいの?」
「ぁ、え、あ、まずはその、乳の下の方をですね、ずっと見たくていろいろ試していたのですが、どうしてもそこだけちょっと厳しいところがあってその……よろしいか?」
「うん、いいよ」
リンは重みのあるそれを、めくるように持ち上げた。覗き込むと、拍子抜けするほどあっさりとお目当てのものは見つかった。
リンとは反対の、左胸の下にボールペンで打ったような、黒い丸があった。
ほくろのようでいて、どこか違う。
完全な黒。皮膚の質感はなく、傷や汚れは一切なく、光すらも通さない。見つめているだけで、奥の底の底まで吸い込まれてしまいそうな、そんな錯覚がした。
雫は、リンの右胸を持ち上げて、言った。
「わー、ほんとだ、リンちゃんとおそろいだぁ、やったやった」
風呂のタイルの上で、雫はぴょんっと飛び跳ねていた。
形はまるで違うのに、場所が対になるのだという。
「運命共同体だね!」
「は、はい」
頷いて、ひとまずヨシとした。
それから雫に手を引かれて、露天風呂へと向かった。
がらっとガラス戸を開けると、あたり一面が湯気に覆われていた。白いモヤが露天風呂全体に充満していて、なにも見えるものがなかった。
「それでねー、アリスったら――あれ……」
急降下するように、雫の声が小さくなった。
「雫……? どうなされ……た……」
突然、のぼせたように頭が熱っぽくなった。
なんだ……なにかようすがおかしい……だがぁ……な……。
「いこぉ……」
手を引かれて、されるがままに外へと出た。
湯気が全身にまとわりついてきて、鼻や口、穴という穴から体内へと入り込んできた。
味が変だ……硫黄ではない……ドクダミのような香り……これはもしや……魔法の……匂い……。
のぼせる頭は、上空にローターの音を聞いた。ぼんやり顔を上げると、航空迷彩を施したヘリが浮遊しているのが見えた。
「は……てきしゅ……なぜ気づか……」
繋いだ手から、力が抜けた。するりと抜けていって、雫は前のめりに倒れた。
「しじゅく……ど……」
意識が白くなって、リンは膝を折って崩れ落ちた。




