第29話 大浴場の洗い場で、犬のような体勢をしてしまった
大浴場へと繋がるガラス戸がミシッと微かな音を立てた。
雫を下がらせて、慎重に中の様子を窺ってみたが、特に不審な点はなかった。
「……気のせいか」
湯気の充満する空間。ぴっちりとお湯の張られた三つの内風呂、ガラスに隔てられた露天風呂。流水音が反響するその場所を、差し込む日差しが照らしていた。
人の姿はない。怪しい気配もない。肩の力を抜いて「どうぞ」と振り向くと、雫のバストが目の前にあった。
「ぐっ……」
タオルで隠されていないふたつの突起。つるりとした肌の袋が、視界を覆い尽くしていた。
雫は首を傾げた。
「なにかあったの?」
「い、いえ、安全確認は完了しましたので、その……はい、ご入場ください」
顔を逸らして、リンは浴場へと向き直った。
ため息を吐こうとして、途中で止まった。
しまった、胸部の確認を忘れていた。
湯船に入る前に、まず洗い場へと向かった。
リンと雫と越谷まひるは、手近なところに並んで座った。アリスだけが、視界に入らないところで一人で身体を流していた。
「あやつ本当に苦手なのか」
リンは上体を後ろに倒して、アリスの様子を窺う――ふりをして雫の背中を確かめた。
うなじ、肩甲骨、尻。濡れてつややかなその身体のどこにも、アザは発見できなかった。頭を動かして下の方を確認しようとしていると、視線を感じた。
湯を被ったばかりの越谷まひるが、目を細めていた。珍しく裸眼で、こちらを凝視していた。
「なに……してるんですか?」
「ん……汚れが付着していたものでな……椅子に。おお、おお取れた取れた、よかったこれだ。少しの異変も見逃せん、うむ」
風呂イスの、適当なところを指でなぞった。
一人で頷いていると、今度は雫が振り向いた。
濡れた髪が、額に張り付いていた。いつもと雰囲気が違う。二年も三年も成熟したように見える。首が硬直して、目を離せなかった。
「わ、今度はセクハラぁ? 無防備だからって、エッチぃ」
「ぶっ」
吐き出すような息が飛び出して、そのままむせた。
「あ、図星なやつ。お返しだぁ」
口元を歪めた雫は、リンの背中に触れた。
「はぅ」
ぞわっと電気が走って、背筋が反り返った。力が抜けて、崩れ落ちた。
床のタイルに肘をついて、尻が風呂イスから落ちた。まるで片足を上げる犬のような体勢になった。かぁと胸から熱が上がってきて、顔が火照った。
大きく目を見開いたまま、動けなかった。なんたる醜態、なんたる恥辱、もう腹を切るしかない。だめだそんなことはだめだ雫を一人にしてしまう、けれどこのまま生きろというのか、無様な忍びとして――今度は脇を支えられるように手がやってきた。
「あ、ごめんね、そんなに脅かすつもりはなかったの」
乳の下側に、雫の親指が沈む。胸を押し上げられるように、身体を起こされた。
「んぅ……突然触れられると、身体が過剰に反応してしまいます、そのように訓練されているので、できるだけご勘弁を」
「へぇ、だからいつもかわいい挙動なんだ」
猫のように脇の下を持たれて、椅子に座り直させられた。
やや股を広げて、その間に両手を置いた。下を向いた髪から、ぽたぽたと水滴が垂れ落ちた。
「かわいいなどではなく、いっときも警戒心を低下させないためのスキルです……そ、そんなことより、無礼を働いたお詫びにお身体を流しましょう、そうだ、それがいい」
ぽんっと手を叩いた。こうなれば恥など捨てろ、この機会を活かさずしてなにが忍びか。
一瞬、唖然としたように口を開いて、それから雫は首をひねった。
「やっぱり触りたいだけっぽい?」
顎に指を置く雫は、笑顔だった。
「それは……正直に申せば……あります」
「あはぁ、大胆モードのリンちゃんだぁ」
丸めた肩に頬をくっつける雫の動きを、リンはじっと見つめた。
間髪入れずに、言った。
「ですから……できれば、前も、洗わせて頂ければと存じます」
間があった。どくんどくんと心臓が鳴っていた。雫の目尻に、シワが寄った。
雫の唇が、ちゅぱと音を立てた。
「い、い、よ」
一文字一文字を強く意識したような、喋り方だった。
「あ、洗い終わったんでアリスの様子見てきますね」
と言って、越谷まひるが立ち上がった。ペタペタと足音を立てて、去っていった。
「で、では」
リンは雫をまじまじと見つめた。
臀部、剥き出しのへそ、胸、脇の下、首筋――よけいな肉のない、すらりとした四肢と胴体。それでいて、骨っぽくもない。
健康的な肉体。少女の身体。ここにどのような秘密が隠されているのか、探らねばならない。
「触らせていただきます……御免」
「ん……」
石鹸の類をなにも手にしていないと気づいたのは、指先が乳房に触れてからだった。




