第120話 雫の家はここじゃない
師父を前にして、リンは反射的に頭を下げた。
「お変わりなく、何よりにございます……まさかこのようなところでお目にかかるとは」
「たわけ、行事に顔を出さずしてなにが長よ」
「は……ごもっともです」
途端に、師父様の声色が柔らかくなった。
「祭りを楽しんでおられるかな、東山殿」
雫は快活に声を上げた。
「はい、とっても。珍しいものばかりで、刺激的? だと思います」
「ふふ、外の人間をもてなせるとあって、皆例年よりも気合いが入っているのでしょうな。時に東山殿、里の生活自体はお気に召しましたかな?」
「はい、そっちも大満足です。なによりもぉ、リンちゃんといつも一緒にいられるので」
「ね」と言って、雫は腕を組んできた。肩がくっつくと、思わず下げていた顔を上げてしまった。
師父様だけではなく、周囲の視線も感じた。
「おぉ、またやってるぞ」「師父様に見せつけておられる」「わぁ、感服感服ぅ」
家族連れが、一人客が、子供が、こちらに注目していた。
師父様は声を出して笑った。
「結構、結構、たいへん嬉しく思いますぞ。そうだ、いっそこのまま里に残られてはどうか、二人のために住居を用意させましょう」
雫の目が、やや見開いた。わずかに開いた口に、指先を当てていた。
「えー、それはちょっと困るかも。秋からまた学校だし、んー、お気持ちだけもらうってやつじゃダメですか?」
「いけなくはありませぬが、街に戻ればまたなにかと大変でしょう。何やら怪しい者たちが生活圏に蔓延っているとか」
組んだ腕に、力がこもった。全身が緊張して、呼吸の動作でさえぎこちなくなった。
雫は一瞬だけ、こちらを見た。すぐに師父様に向き直って、言った。
「それはそうなんですけど、平気です、リンちゃんがいてくれますから」
「しかし、銃撃を受けた、拉致されかけたと、そのような話を聞き及んでおりますゆえ、其奴一人ではもはや守りきれぬのではないかと案じているのです」
「もしかして、師父さんは社交辞令じゃなくて、本当に残ってほしいって思ってるんですか?」
「左様。冗談など申しませぬ」
雫は自分の唇に人差し指を当てた。喉を鳴らしながら、なにやら考え込んでいた。
やがて、雫の視線はこちらに向けられた。
「リンちゃんはどう思う?」
胸の奥が、重くなった。考えが回って、まとまらず、なかなか声にならなかった。
喉が細くなったように、息苦しい。ここに危険はない、里に残れば命を狙われることもない。
師父様との賭けに勝って、男には戻らず、この姿のまま二人で暮らす。
雫にとって、悪い話じゃない。
自分にとっても、おそらく。
けれど、それではあまりにも。
「某は反対です。忍びでもない者が、閉じた世界で一生を終えるべきではありません」
師父様の目を見た。
「恐れながら、このような提案はお控えくださいますよう、お願い申し上げます。期間が終われば雫は家に帰ります、もちろん護衛も一緒に」
「ほう……」
組んだ腕を外して、雫の手を握り直した。
「行きましょう。そろそろまひるたちも戻っているかもしれません」
踵を返して、師父様に背を向けた。
雫は言った。
「いいの?」
「構いません。お気になさらず……」
手を引いて、歩き出した。緊張は維持したまま、しかし思いのほか心は凪いでいた。吐き気もない、動悸もない、あるのは――
わずかな高揚感だろうか。
背後で、師父様が言った。
「忍びとは何たるか、ゆめゆめ忘れるでないぞ」
振り向かず、雑踏の奥へと向かった。




