第112話 殺される、雫に
雫が、アリスの剣を構えていた。就寝時と同じ浴衣姿のままで、履物もサンダルだ。
風変わりな冗談か、部屋を空けたことを怒っているのか、などと考えていても仕方がない。乗れぬ、戦えなどという要求には。
腰の高さで剣を構えながら、雫は言った。
「たくさん斬られてきたけど、斬ったことはないんだ。だから不慣れだけど、今日は挑戦してみたい。もしかしたら、楽しいかもしれないし」
雫の口元に、笑みが浮かんだ。しかしその腕は震えていて、剣先は安定していなかった。
構えからして、まるで素人。距離五メートルを詰めて無力化するのに、一秒もかかりはしない。これが単なる敵ならば、だが。
「楽しいなどということは、ありません。武器は人を斬るものです、命を奪うものです、雫には似合いません。どうか矛を収めていただきたく」
「知ってる。でもリンちゃんは楽しそうだった。だからわたしも、やってみればなにか見えるかなって」
「それは……」
胸の奥が、きゅっと詰まった。周囲を見れば、里の衆が二十人以上も倒れていた。いつのまにか、やりすぎた。楽しんでいたかと言われれば、否定もしにくい。
困ったものだ。女らしくあろうというこの矢先に、なぜ盛り上がった。胸を、見られた、あの時に撤収していればこんなことにはならなかったというのに。
「わ、わかりました、雫とも手合わせいたしましょう。しかし、真剣というのは問題です、道場に移動しましょう、訓練用の武具がありますので」
手を差し出しながら、雫に近づいた。またどこか露出していないか確かめつつ、ゆっくりと歩を進めた。
雫は首を横に振った。
「いい、これでやる。じゃないとリンちゃんのことがわからない気がするの」
「訓練で本身を使用するのは危険です。取り扱いを違えば、刃は己に返ってくることもあるのです、それは渡してください」
「自分は本物の剣でチャンバラしてた。鎖鎌のおじさんとか、仕込み杖の人とか」
また一歩近づいた。
「忍びは特殊な訓練を受けているので、平気なのです。呼吸が合うとでもいいましょうか、暗黙の了解のようなものがあるので、命の危機は回避されます。ですが雫は違います、真剣の使用は認められません」
雫は、剣先を地面に向けた。軽く顔を伏せて、つぶやいた。
「そう……じゃあいいや」
リンはほっと息を吐いた。
「はい、賢明です。武術に興味があるのでしたら、一から護身術をお教えいたします。まずは着替えを――はっ」
なにか強大な圧を感じて、咄嗟に身を引いた。首筋を鋭利な刃が通り過ぎていくような気がしたが、身体にはなにも起きていなかった。
周辺にいた忍びたちも、みな一様に顔を見合わせていた。さらにはアリスも、同じような反応を見せていた。
探す。出所はどこだ。敵か、師父様か、天災か、違う、これは。
ぼそっと雫がつぶやいた。
「仲間はずれってちょっとムカつく。正論とか、あんまり聞きたくない」
真夏の陽炎のように、雫の周りが歪んで見えていた。胸焼けするほどに濃い気配が色を持っていた。
朱色――目の錯覚かもしれないが、雫はそんななにかを身に纏っていた。
「勝手に攻撃するね。お姫様扱いしてたら、ひん剥いて裸にしちゃうから、よろしく」
「し、雫、どうかお待ちを」
「やだ」
剣を持つ手を肩まで上げて、雫は突っ込んできた。
両手で柄を握り、構えは酷く大振りで、足はそこまで速くない。重心は高く、バランスも悪い、剣を振るというよりは振り回される寸前。
「やあああ」
素人だ、間違いなく。外見だけ見れば、愛らしくすらある。万に一つも攻撃を受ける可能性はない――ないが、こめかみからは多量の汗が流れ出していた。
殺される、嫌だ、死にたくない。
そんな思考が、頭の中に浮かんでいた。
どたどた、ばたばた、ふらふら、朱色の気を纏った雫が突撃してきていた。




