第102話 もう鈍感ではいられない
鯉のように口をパクパクとさせてから、まひるは言った。
「だ、誰が好きかなんて、私考えたことないんです。けど、今、今、なんでこんな嫌な気持ちになるんだろうって思って、それで考えてみて、そうかもしれないって、思っちゃって」
まひるは、ぎゅっと目を閉じた。雑巾を絞るように、力を入れているのがわかった。
いくらかして、まひるは目を見開いた。また、まただ。その強烈な視線は、こちらに向いていた。
「いつからだろう、最初はその人のことなんて、全然好きじゃなかったんです。むしろ怖くて、近寄らないでほしいって思ってたのに、いつの間にか……いつの間にか、仲良くなりたいって、なれたらいいなって思ってて」
声を震わせながら、まひるは続けた。
「最初は暴力ばっかりだったのに、なぜか優しくなって、家に来たりして、頼られたりして、ひどい、ひどいんです、自覚なんてないし、気にすることもないし、それが自然体で……ひどい……」
まひるは顔を拭った。視線は、雫を向いた。
「東山さんには、好きな人はいますか」
「うん、いるよ。隣にいる」
「取られたくないって、思いますよね。自分だけにしてほしいって、思いますよね」
雫は深く頷いた。
「そうだね、誰かに手を出されたら、わたしは正気じゃいられなくなっちゃう。相手のことを絶対に許せないかも」
物騒なことを言ってるのに、雫の顔は穏やかだ。正座姿のまま、きっちり背筋を伸ばしていた。
鼻をすすりながら、まひるは言った。
「もし逆だったら……どうしますか、自分は誰かの大事な人が好きなんだって気づいたら、東山さんはどうしますか」
雫は即答した。
「取りに行くよ、振り向いてもらう。当たり前じゃん」
「相手に恨まれても!?」
「そんなことより、わたしは自分のことが大事。欲しいものは絶対に手に入れる――越谷さんは違う?」
「私は……」
まひるは顔を伏せて、自分の指を見つめていた。目尻にシワが寄って、頬は赤くなっていた。聞いてわかるくらいには、呼吸も荒い。
「……奪うなんてできません。だけど、いつか、いつか気持ちを伝えたい……ちゃんと振ってもらいたい……許してくれますか」
雫は微笑んだ。
「もちろん許さない」
にこにこと、雫はいい笑顔をしていた。
まひるは顔を上げた。やっと表情に明るい色が見えた。
「そっか……ふふ……ですよね、正直で羨ましい」
二人は、顔を合わせて笑い合っていた。
ふうむ、まひるは雫が好きなのか……などと考えられるはずもない。口にこそしていなくても、誰の話をしているのかは明白だ。
いつからだ、いつからそうなった。どこで間違えた……いや正解や間違いではないのかもしれないが、困る、難しい。
頬がひくついていた。表情が上手く定まらない。笑えばいいのか、固くしていればいいのか、共感してあげればいいのか――馬鹿め、それは逆効果に決まっている。
よし、ひとまずそっとしておこう。険悪な雰囲気ではないようだし。
アリスに肩を叩かれた。
「リンにゃーん、なにか言ってあげることはないんですか? まひるは勇気を出しましたよ」
「い、いや某は恋バナには疎く……ぅ」
物欲しそうな顔で、まひるがこちらを見ていた。胸を撫でられて、次の瞬間には押しつぶされるような、そんな感じがあった。
溜まったつばを飲み込むと、喉が鳴った。
言った。
「だ、誰かを想うのは心身ともに良い影響がある……実体験だ……だから、その……自覚したのはめでたいことだと個人的には思う……今後も精進してくれ」
場が静まり返った。全員の視線が、こちらに集まっていた。
カチカチと時を刻む針の音だけが、聞こえていた。
失敗、失敗をした? ええい、もはやなにがなにやらわからん、愛を語る言葉など知るものか。
和め、和め、場の空気よ戻れ。
咳払いをしてから、言った。
「語尾を失念していました……にゃん」
また一段と、気温が下がった気がした。
次はなにを言うかと考えていると、雫が「ぷっ」と笑い声を漏らした。
「あははは、あー、だめだめやっぱ全然わかってない、リンにゃんはそのままでいてね」
釣られたように、まひるも笑い出した。
「ですね、でも……ふふ、東山さんに同感です」
「あ、ねえ、そろそろ雫って呼んでよ、わたしも名前で呼ぶから」
「そっか、ですね、じゃあ、雫さん」
「んふふ、まひるちゃん」
リンは腕組みをした。まるで道化だが、結果的に妙な空気はなくなった、よかった。
頭に浮かんだ言葉を、リンは胸の中でつぶやいた。
――雫、ちゃんとわかっているぞ、まひるの気持ちは。それもまた、教えられたことだから。
「ふふ……」
笑顔を抑えようとして、しかし、そのまま表に出した。
一人で笑っていると、まひるが手を上げた。
「じゃあ次は私が王様やります! 楽しそうなリンさんにその理由を話してもらいます!」
雫も手を上げた。
「あ、じゃわたしは、リンちゃんにハグしてもらいたい! みんなにね!」
ふたりに、詰め寄られてバランスを崩した。
こんなときに限って、アリスは端でにこにことしているだけだった。




