第99話 大好きなお菓子の味がしない【side 越谷まひる】
アリスがリンの投げた湯呑みをキャッチする20分前のこと――
まひるはあてがわれた自分の部屋に戻り、手にしていたお風呂セットを畳に放り投げた。
八畳の客間は旅館のように清掃が行き届いていて、ちり一つ落ちていない。布団はすでに敷かれているし、生活に必要な品々も不足なく用意されていた。
足を崩して座り、まひるは茶櫃の蓋に触れた。曲線の縁は、ひんやりとしていた。
「はぁ……」
家事もしなくていい、生活費もかからない。食事は美味しい。部屋がアリスと隣り合わせで、騒がしそうだけど、悪いところはそれくらいだ。
それくらいなのに、なぜか胸の中が重い。空気が重い。適当に音楽を流すとか、テレビを付けるとかしても、解決しないんじゃないかと思う。
手足がばたついて、落ち着かない。リンさんと東山さんは同じ部屋、そんなことを思う。すぐに振り払う。関係ない、自分には関係ない。部屋はひとりひとつでいい。
いいんだ、いいもん、いいんだから。何週間も誰かと暮らすなんて、ストレスが溜まるだけ。あの二人は大変だろうと思う。
思う。
「お茶菓子食べよ……」
いよいよ茶櫃の蓋を開けた。ちんすこうやら、八つ橋やら、バターサンドやら、統一感のない菓子類が入っていた。あと、一応茶器も。
「ハイ、お茶は任せてください。本場の味を教えてあげます」
声がして、振り向くとアリスがいた。畳に手をついて、茶櫃の中を覗き込んでいた。
「緑茶ですけどね、あるの。私はお菓子だけでいいので、飲みたきゃご自由にどうぞ」
向き直って、とりあえず、ちんすこうに手を伸ばした。袋を開けていると、きょとんとした声でアリスが言った。
「ワッツ? 急にワタシが現れて、驚いたりとかしませんか?」
「別に。起きたら隣で寝てるくらいのことあると思いましたし……はむ」
かじった白いちんすこうは、あまり味がしなかった。
美味しくないわけじゃないけど、なんだか薄い。舌が麻痺してるみたい。
宴会の食事は、あんなに美味しかったのに。
なんでだろ。
「リンさんがご不在だからじゃないのですか?」
耳元で、アリスがそんなことを呟いた。
一瞬だけ、胸の奥でなにかが発火した。けど、すぐに鎮火した。
「勝手に人の心を読まないでください。もしかして魔法ですか、それ」
「ノン、顔と態度からの推測です」
「そうですか」
肩が沈んだ。バターサンドに手を伸ばしたけど、こっちもやっぱり味が薄かった。
みんなと……リンさんとお茶をすれば確かにお菓子は美味しいかもしれないけど、こんな時間だし、そんなことのために部屋になんて行けないし、なによりも。
東山さんがいるし。
「今頃お二人はエキサイティングしているはずです。先ほども、もう寸前でしたから」
食べる、食べる食べる。唇が、バターでねちょねちょする。ぽろぽろと生地のカスが、畳に落ちていく。
耳元では、アリスの声が聞こえている。
「なので――」
この人はなんなんだろう。人の情事なんて伝えてきて、楽しいんだろうか。そんなの聞きたくないし、考えたくもない。だいたい二人とは……友達なのに。
アリスは言った。
「今から、覗きに行きませんか?」
肩が跳ねた。振り向くと、口に手を当てたアリスがニタニタと笑っていた。
ずり落ちた眼鏡を直してから、言った。
「行きません」
「レッツゴー、お邪魔が入るのもユリユリの宿命なのデース」
手を取られて、ものすごい力で引っ張られた。気づけば、立ち上がっていた。
綱引きのように、自分の腕を引いた。
「行きませんからっ、見たくないですからっ」
「そうやって意地張ってると、本当に取り返しのつかないことになっちゃいますよ」
「なんですか取り返しって、私は別にお二人がどうだって興味なんて……ありませんっ」
「姿を隠すのは、お仕事中だけにしましょ。標的を逃さないのがスナイパーデスよ」
引っ張られて、襖へと向かっていく。足がもつれるように動いて、でも、絡んだり、こけたりはしない。
「仕事を持ち出すのか持ち出さないのかはっきりしてくださいよ……もうっ」
「ぐへへ、イヤイヤ言っても、足は正直デスね」
結局、廊下に出てしまった。
手は離されて、自由になった。なのに、腕は襖を閉じていた。足は、リンさんの部屋に向かうアリスを追いかけていた。
リンさんの部屋に着くと、なにかとんでもないことが始まりそうになっていた。見つめ合う二人から、目が離せなかった。
あるところで、アリスは襖の隙間を広げた。ガタッと、大きめの音がした。
『くっ、くせ者っ』
跳んできた湯呑みをいとも簡単にキャッチしたアリスは、こっちを見てウインクをした。
「ナイトはまだまだこれからですよ」




