第98話 雫と、したかった
畳に上がって、今一度部屋を確認した。
やはり見えるところに、布団は一組しか敷かれていなかった。
次に押し入れの中を見た。がらんどうで、湿気取りが隅に置かれているだけだった。
その場で立ち尽くす。胸の奥が、ちりちりと疼いていた。
お膳立てという言葉が頭に浮かんで、かき消した。
ここは屋敷だぞ、鍵もない、誰が入ってくるかわからぬというのに。
「……どうやら手違いがあったようです。寝具を調達してくるので、しばしお待ちを」
早足で、畳を歩く。が、押し入れを閉め忘れていて、一度戻った。両手で取っ手を掴んで、ゆっくりと閉じた。
改めて部屋を出ようとすると、雫が言った。
「それより、ちょっとお茶しない?」
雫は、座卓の前に座っていた。こちらには顔を向けておらず、少しはだけた浴衣から、うなじが見えていた。
風呂上がりの素肌は、やや赤みを帯びていた。
「しょ、承知、そうですね、少し落ち着きましょうか、妙に部屋も暑いし……あ、湯、湯を沸かします」
給湯室に向かおうとしたが、その必要もなかった。部屋のコンセントには、見覚えのないポットが繋がれていた。既に、保温のランプが付いていた。
なんと、用意周到。
「……沸かしてありますね」
雫はぎこちなく口を手で押さえた。
「あ、ほ、ほんとだー、じゃあ湯呑を用意するから、持ってきて」
「はい、よろこんで」
両手で抱えて、座卓にポットを置いた。雫はカチャカチャ音を鳴らしながら、茶の用意をしていた。
その対面に、正座した。背筋をまっすぐに伸ばして、膝に両手を置いた。
湯呑に茶の粉末を入れた雫は、なにも言わずに湯を注いでくれた。視線は下を向いているのに、ときおり上目遣いになって、ちら、ちら、と目が合った。
「は、はいどうぞ、熱いから気をつけてね」
「かたじけない、大事に飲みます……あちっ」
湯気の立つ湯呑を鷲掴みにしてしまい、手の表面がぴりっと痛んだ。
なにをしている、なにを、言われたばかりではないか。
雫は、口を結んでいた。やや身体を斜めにして座って、視線を泳がせていた。笑顔でも、憂いているのでもなく、その中間――いや、まるで異なる表情。いつか見たことある、あの悩ましげな表情はいつか。
ぶちっと記憶が繋がった。
キスをねだったあのときと、ほとんど同じだ。
今回は部屋が明るいので、頬が赤くなっているのが見て取れた。
揉むように唇を動かしてから、雫は言った。
「リンちゃんのふるさと……いいところだね。みんな優しいし……温泉もあるし」
「ぁ、さ、左様ですか。都会人には退屈ではないかと不安でしたが、そうであれば一安心です」
ふーと吐いた息は、やたらと熱を持っていた。
雫は、軽く微笑んだ。その視線は、一瞬だけ布団を向いた。
「ちょっと、強引っぽいところもあるけど」
「まったく、なんのつもりなのやら。はつさんにはよく言っておきますので、あれは雫が使ってください、某は立って寝ます」
「んふふ、いいよ、何度も一緒に寝たじゃん。布団は一つでいい、二つあっても使わなかったかも」
肩周りが、カチコチになっていた。膝に置いた手は、ほんの少し震えていた。
頭の中がぽぉっとしてくる。なぜか風呂を思い出す、雫のあられもない姿を。
いま着ている、あの浴衣の下を。
「か、かもしれませんね……雫も強引ですから」
「そっちも、ね」
一瞬目が合うだけで、胸がパンクしそうになった。浸れば極楽に飛びそうなエキスが、全身から湧いてきていた。
この状況、この身体。
なにが起きてしまうのだ、このあと。
いやいやいや、まだ早い、早すぎる。契りを結んだわけではないのだぞ、それに雫はまだ若い、なにを馬鹿なことを。
「おちゃ、いただきますね」
湯呑を口に運んだ。熱が逃げて、ぬるかった。
「リンちゃん」
「んっ」
雫が、四つん這いになった。犬のように、赤ん坊のように、手足を使って、こちらに近づいてくる。浴衣の隙間から、胸の谷間がちらちらと見えていた。
息を呑むと、喉が鳴った。
雫の視線は、こちらの胸から、顔へと上がっていった。
「わたし、我慢できないかも」
すらり、すらりと雫は近づいてくる。顔が、肩が、目の前までやってきた。口付けまで、あと数センチ。それだけならいい、いいが。
「ま、またれよ、雫、それ以上は――はっ」
カタっと廊下側から不審な音がした。
「くっ、くせ者!」
飲み干した湯呑を投げつけた。
わずかに開いた襖の隙間を抜けて、湯呑は廊下側に立つ不審者に受け止められた。
雫が上体を起こした。
「え、また誤魔化すのぉ? それ前にもやったじゃん」
「い、いえ、今回も本当に襲撃です。某の後ろに隠れてください」
なぜいつもこのようなときに来るのだ、敵は。おのれぇ。
「姿を見せろっ、何者だ!」
そろーっと襖が開いた。顔の赤い金髪女が、湯呑を鷲掴みにしていた。
「ヘイッ、二人じゃ退屈なので遊びに来ちゃいマシタ」
「また貴様かっ!」
飄々としているアリスと、その後ろに、縮こまったまひるがいた。
「アリスぅ、だからやめようって言ったじゃないですかぁ」
そのまひるは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。




