第9話 某は手練の忍びゆえ、母親の前で少女になるくらい造作もない
セーフハウスのベランダから雫宅を眺めて、リンは喉を鳴らした。
「むぅ……奇天烈なこともあるものだ」
部屋の損傷が、銃弾で穿たれたはずの壁が、綺麗さっぱり修復されていた。まるで昨夜の戦闘など存在しなかったように。
朝日を反射する窓ガラス。あのカーテンの向こうで雫は眠っている。
いつからああだったのか、そもそも本当に壊れていたのか。あれが雫殿の力なのか。
「わからぬ……だが」
息を吐きつつ、手すりに額をあてた。
この件で悩むのはやめよう、そういうものだと思う他にない。あくまでも護衛任務、目的は秘密を解き明かすことではない。
なによりも本人が日常を望んでいる。ならば、守るものは単純明快だ。
「よし、そろそろ迎えに行くか」
つぶやいて、顔を上げた。
振り向くと、窓の向こう側に春が立っていた。
眉をひそめて、じっとこちらを見つめていた。
「変だね、まさかとは思ったけど」
腕を組んで、リンは頷いた。胸を潰しそうになって、少し肘の位置を低くした。汗で滑って、ふたつの乳が軽く揺れた。
「ああ、妙なこともあるものだ。しかし春、気にしすぎるな、考えを巡らせれば腕が鈍る」
春の視線が、首筋から胸元に下がっていった。
「まさかまさかだよ、サラシで登校してたなんて、いくらなんでもそれはないよ兄姉さま」
親指と人差し指の付け根で、春は自分の目元を覆った。深くため息を吐いていた。
「は?」
「あとさ、もう少し恥じらおうよ。そんな丸出し、雫さんに見られたらびっくりされるよ」
自分の胸を見た。サラシを巻く途中だったので、確かに肌は露出している。
すぐに顔を上げた。
「着替えの途中だ、致し方ない。心配するな、学校では常識的に振る舞っているつもりだ」
横腹に手を当てて、肉を揺するように掌底を回した。ぱちんと皮膚を叩くと、春はまた息を吐いた。
「手すりに生おっぱい乗せてる人が言ってもなんも説得力ないから」
「そんなことはしておらん」
「どっちでもいいのー、ほらこっち」
腹に置いていた手を取られる。春は力を入れて、室内へと引っ張り込もうとしてきた。
腕が抜けるほどの勢いで引かれて、足がもつれた。前のめりになって、スネを段差に強打した。
「ぬっ……なにを」
「いいからっ、ブラ貸してあげるからおいで」
「サラシがある」
「ないのと一緒だよっ」
腕を引っ張り返した。ベランダとリビングの敷居を境にして、力が拮抗する。なんたる非力、妹と張り合うことになるとは。つくづくこの身体は女。
「必要ない。某はお洒落などをするためにこの身体を授けられたわけではない」
「最低限することがあるのぉ。いいの? そんなんじゃ雫さんに嫌われちゃうよ」
「なっ――おわ」
力が抜けて、リビングへと引っ張り込まれた。
バランスを取っていると、一歩引いた春が手元で端末を操作するのが見えた。
「これ、忘れたわけじゃないでしょ」
ぴっ、と機械音が鳴って、声が部屋中に響き渡った。甘くとろけるような、少女のつぶやき。戦場にはふさわしくない、ふわふわしたひとこと。
『リンちゃん大好き』
スピーカーから流れる記録音声。鼓膜から音が入ってきて、頭の後ろがぴりりと震えた。ヘソの上からぬるめの熱が上がってきて、顔で行き止まった。
鼻がぶつかりそうな距離に、春が顔を寄せてきた。
「体育とかの着替えでさ、サラシだったらドン引きされるよ」
春は強調するように言った。
「任務、にも支障が出ると思うんだけど、ほんとにそれでいいわけ?」
眼球が震えた。かすかに頭が揺れていて、芯が通らない。
吐息と声が混ざり合う。
「いや……それは問題……かもしれぬ。わかった……ブラの付け方とやらを……伝授してくれ」
春の口元が、にぃっと歪んだ。
「もっちろんっ、かわいいの選んだげるね」
「機能的なので構わ――」
「構わなくないよ」
指先で、突起に触れられた。弦のように震えて、痺れが身体に広がった。
「あぅ……」
足の骨が無くなったかのように、力が抜けていった。
別室にてあれこれと試着のようなことをさせられた。楽しそうな妹は、鼻歌混じりに下着を選んでいた。
ホックで留める形のブラジャーを付けさせられて、ようやく制服に着替えた。胸の締めつけが、いくらか気持ち悪い。サラシともまた違った、なんともいえぬ異物感。
そのせいか、心臓の音がいつもより大きく聞こえた。
息も整わぬまま、時刻を確認すると、ちょうど雫との約束の時間にさしかかろうとしていた。
リンは部屋を飛び出し、階段を駆け下りて雫宅の玄関へと向かった。
チャイムを押すと雫ではなく、母親が出てきた。
異質な雰囲気をまとわない、普通、と言っていい女性だった。小じわは浮かんでいるが、まだそう歳は重ねていないように見える。
おそらく雫が何者であるかも把握していないのではと、直感した。
「あら? あらあらあらあら、その制服、もしかして雫のお友達?」
「はい、それがs――私は、彩峰と申します。雫さんとは仲良くさせてもらっています」
頬を上げて笑顔を作ると、にたぁと母親の表情が崩れた。
「へぇ、雫にこんなお友達がいたなんてねえ。全然知らなかったわぁ」
母親は前のめりになって、リンをじろじろと観察していた。声も弾んでいる。
「は、はい、最近仲良くなったものですから。あの、それg……私になにか、変なところでも、ありましたか?」
疑われている。変身が見破られたのかもしれない。
どうする、眠らせるわけにはいかない、やり切るしかない。女の子らしく、少女らしくだ。
母親はきょとんと目を丸くして、口を抑えた。
「あらごめんなさい、あなたみたいな子なかなかいないから、おばさんちょっと感動しちゃって」
どくどくと全身を血が巡る。早くなる心臓の音を、培った技術で抑える。
「そうですかぁ、でもぉ、私ぃ、全然普通ですよぉ、ふつ……うぅ」
身体をくねらせ、高い声を出す。内側からくすぐられたように、胸の中が痒くなってくる。
顔がひきつる。妙な笑顔になる。これも任務のうち、なりきれ、女に。
「お母様ってすごく美人ですよね、いいなぁ、憧れちゃうなあ」
そうだ、この感じだ。もう一息。声を高く、耳触りのいいように。
両手持ちのカバンを身体の前でしっかり持って、少し首を傾けた。
声を大きく、ハキハキと言った。
「羨ましぃ、私ももっと、かわいくなりた――」
「あれ? リンちゃん?」
母親の背後から、ねぐせをつけたままの雫がひょっこりと顔を出した。
「な」
手には歯ブラシを握っていて、リンを見つめながら歯を磨いている。
「あ、寝坊不可避だから起こしに来てって頼んだんだった、全然平気だったね」
ニコッと雫は笑った。
鳥肌が立つような感覚があって、遅れて身震いがやってきた。
身体が熱を持つ。湿地帯にいるような、嫌な汗が一気に吹き出してきた。
歯ブラシを口から出して、雫はさらに大きな笑顔を向けてきた。
「おはよう、リンちゃん」
細く消えてしまいそうな声が出た。
「ぁ……おはようございます……雫さぁ……ん……」
声が先細って、後ろの方は自分でもなにを言ってるのか聞き取れないほどだった。
「雫ぅ、こんなかわいいお友達がいるならもっと早く紹介してよ。ジュニアモデルさんかと思っちゃったじゃない」
「あ、わかるー」
リンなど無視して、雫は母親と談笑を始めた。
この任務、敵と戦うよりも寿命が縮まる気がする。




