ep2 浅草寺の人形焼きと入社式
三時間後。
浅草近くの木の香りする小さなカフェによった。
まっすぐ家には帰れない気持ちだった
アイスコーヒーの氷がカランと鳴るたびに、
心臓も一緒に跳ねる。
テーブルの上のスマホが、
ポロン、ポロン、と震えた。
《株式会社桜江フードサービス
採用選考結果のお知らせ》
画面を開く指先が、わずかに震える。
《この度は当社の採用選考にご参加いただき、
ありがとうございます。
選考の結果、浅倉椎菜さんを調理員として
採用させていただくことになりました――》
「……えっ、、、、受かった。」
口の中で押しつぶした言葉が、
胸の奥でじんわり広がっていく。
その夜、浅倉家の食卓。
「やったじゃない!」
母・瑞希が、エプロン姿のまま手を叩いた。
病院の管理栄養士で、ちょっと潔癖ぎみ、
人一倍おせっかいで、
そして誰よりもわたしの味方だ。
「株式会社桜江フードサービス、、、
へえ、いい会社ね」
「お母さん知ってるの」
「まあね」
なんだか少し頷きながら
「給食の調理は大変よ。でも、子どもの毎日を支える
仕事だからね。頑張るのよ」
「じゃあ夕飯、夕飯ね」
テーブルの真ん中には、
大きな鉢に盛られた筑前煮。
忙しいの休みの日に母が仕込んでくれた。
私は筍とこんにゃくなんといっても鶏肉が大好き!
でもでもやつらが・・・・
そう椎茸と小松菜が、これでもかと主張している。
「……相変わらず、わたしの名前の材料、
全部入ってるよね。」
「椎菜は椎茸と小松菜からもらった
名前なんだから、当然でしょ。」
そう言って、母はわたしの皿に、
椎茸をそっと一個、追加してくる。
わたしは、その椎茸を箸でつまみ、
できるだけ自然な動作で母の皿に戻した。
「あら。まあ、、、、まっそのうち
食べられるようになるから……。」
今度は小松菜が、何事もなかったような顔で、
わたしの皿に引っ越してくる。
母が「それはそれで、どうなの、
本社に行った感想は。」と
ごまかしながら話しかけてくる
仏壇の横には、大学の時の応援団の
長い法被を着て
下駄をはいた父の写真。
厳しい顔で、どこか背筋がしゃんとしている。
(お父さん。わたし、給食の調理員になるよ。
栄養士免許、ちゃんと活かしてくるからね。)
箸を握ったまま、心の中でそっと報告した。
季節は巡り、春。
浅草寺の境内は、朝から観光客と、
入学式帰りらしい家族連れでにぎわっていた。
わたしはジャージ姿で、本堂の前に立つ。
白い息はもう出ないけれど、空気の中には、
まだ少しだけ冬の名残が混じっている。
「今日から、社会人です。」
手を合わせてそうつぶやくと、
自分の声が胸の中で何度か反響した。
「おはよう、椎菜ちゃん。今日から社会人だって?
早いねえ、おじさん涙出ちゃうよ。」
仲見世の人形焼屋の「おじさん」が、
焼き台越しに声をかけてくる。
「おはようございます。
今日もいつものお願いします。」
「はいよ。いつもの、あんこ無しね。
……おまけしておくよ。」
受け取った紙袋から、人形焼をひとつ
取り出してかじる。
あんこ入りより少しだけ安い、素朴な甘さ。
父とここで並んで食べた記憶が、
ほんのりと口の中に戻ってくる。
浅草から舞浜へ向かう電車。
窓の外で、川とビルと観覧車と倉庫みたいな
建物が、ゆっくり入れ替わっていく。
東京ミライーシー・ホテルヴィネチア
豪華なシャンデリアと絵画の並ぶロビーに
足を踏み入れただけで、
自分がどこか別の世界の登場人物に
なったような気がした。
高い天井の披露宴会場。白いテーブルクロス。
入社式が始まり、社長の挨拶。
凛としてかっこいい女性で、
私もいつかなれるかな、
なんて思っちゃったりした。
その後は、私たちの出番。
皆さん笑顔で応援してくれている。
正面のステージには、その前に、
新入社員が一列に並んでいる。
ひとりひとり自己紹介と決意発表をした。
そのあと公式キャラクターのミラーとライーたちが
席まで来てくれて、お祝いしてくれた。
もう最高の気分。だけど、緊張感は増すばかり。
食事が始まると、
同期のみんなは「どこ配属かな」
「何食ぐらいの現場なんだろ」と話している。
わたしは緊張しすぎて、がちがち。
素敵な食事の味も、よくわからないくらい。
あっという間というか、気を失っていたのか、
気がつくと締めになっていた。
「それでは、締めの挨拶を、
人事研修部長の友部より。」
司会の声に合わせて、友部部長がゆっくり
壇上に上がる。
スポットライトの下でマイクの前に立つと、
自然と背筋がピンと伸びた。
「今日はこのような素敵な場所で、
皆さんをお迎えできることは最高の誇り、
最大の喜びです。
しかし、これもひとえに今まで入社してきて
活躍してくれている先輩たちがいるからなのを、
忘れてはいけませんよ。
みなさんも、ぜひそうなってほしいです。」
(なんか『美女と野獣』みたい。)
そう思って、心の中で少し笑ってしまった。
急に声のトーンが変わる。
「わたしたちの仕事は、表に名前が出る仕事では
ありません。」
静かな声なのに、会場の空気がすっと引き締まる。
「学校に併設された給食室という、
裏方の世界で働くことになります。
汗をかいてお金をいただく仕事です。」
一言一言が、ゆっくりと胸の中に沈んでいく。
「でも、その“いただきます”の向こう側には、
必ず、今日ここにいる
あなたたちの汗と涙の手作りのしごとがあります。
皆さんのこれからの航海が、素晴らしいものに
なるように心より願っています。」
最後に、友部部長が少しだけいたずらっぽく
笑った。
「では、研修部のみんなと一緒に、
一言だけ言わせてください。」
ステージ袖から、研修担当の社員たちが並び、
息を揃える。
「ヴォン・ビアッジオ!」良い旅を!
少し笑いが起きて、それから大きな拍手が広がる。
その音は、高い天井でやわらかく跳ね返り、
わたしの肩にも、そっと降りてきた。
(いよいよだな。わたし、本当に始まるんだ。)
少し決意が固まった。
4月1日からしばらくは、両国本社での
研修の日々だった。
衛生管理、アレルギー対応、帳票の書き方、
メンタルヘルスの話――。
堅そうなテーマのはずなのに、グループワークや
ロールプレイングが多くて、
気づけば笑い声が出ていた。
初日は、浅草の体育館でスポーツ研修。
両国から隅田川沿いを歩き、水上バスに乗って
移動した。
川面のきらめきも、橋のアーチも、
いつも見ているはずの景色なのに、
「現場の入り口」だと思うだけで
少し色が濃く見えた。
同期とも随分打ち解けて、
肩を組んで笑いあうようになっていた。
研修の最終日。
配属先発表の日。
友部部長が、ひとりひとり丁寧に名前を呼び、
辞令を渡してくれている。
「浅倉さん、浅倉椎菜さん。」
(呼ばれた……どうしよう。)
心臓が一瞬だけ止まり、次の瞬間ドクンと
大きく跳ねた。
前に出ると、「両国橋学園小中一貫校」と
印字された配属辞令を手渡される。
紙の端が、指先にじんわりとした重みで
食い込んだ。
友部部長は、現場の人数や食数、
学校の雰囲気を、簡潔に、でもひとつひとつ
丁寧に説明してくれる。
「小中一貫で、約1000食。最初は大変だけど、
学べることもすごく多い現場です。」
そして、最後に声のトーンを少しだけ落として
言った。
「ここのチーフ、すごくいい人だから。
いっぱい教えてもらうんだよ。」
わたしにだけ聞こえるくらいの小さな声だった。
(約1000食……。大きい。けど――)
不安と同じ量だけ、胸の真ん中に期待がじわっと
広がっていくのを感じた。
本作に登場する「両国橋学園小中一貫校」は、実在の学校ではありません。
けれど、モデルにしているのは、両国の空気そのものだ。
国技館の緑の大屋根。隅田川の風、厩橋の鉄の匂い、朝の仕込みの湯気に混ざる下町のざわめき。
この界隈が持つ“働く人の温度”みたいなものを、物語の中心に置きたかった。
毎朝、千人分の食事が動き出す場所は、ただの舞台ではなく、椎菜の青春そのものになる。
だから、実在校の名前は使わず、「両国橋学園」という架空の学校にまとめた。
実在のどこかに迷惑をかけないためではなく、逆だ。
現実のすべての学校に、敬意を払いたかったからです。
この町で、働くひとたちの手で温度がつくられ、子どもたちに届いていく。
そんな“給食の温度”を成立させる場所として、
小中一貫校という
1年生の不器用な「おいしかった」にも、
中学3年生の照れた「ごちそうさま」にも、
同じ給食室が寄り添っていけるから。
椎菜の七年間の成長弧を描くには、
同じ場所で、同じ仲間と、同じ釜の音が続いていることが必要になる。
両国橋学園は、そのために生まれた“小さな下町の箱舟”みたいな学校だ。
読んでくれたあなたが、もし両国の街を歩くことがあれば、
どこかで彼女の呼吸を感じるかもしれない。
それは、今日も働いている合図だ。




