ep3 玉ねぎ山とはじめての大ピンチ
給食初日。
両国橋学園小中一貫校。校舎の裏手にある、
学校に併設された給食室の入り口。
「おはよー。」
用務員さんが、カゴを揺らしながら
自転車を押してきて、
にこっと笑ってくれた。
「あっ...おはようございます。」
わたしも、あわててペコっと頭をさげる。
まだ校舎には、先生や子どもたちの姿はない。
夏休みに忘れ物を取りに来たみたいな静けさが、
今日の不安を、じわじわと大きくしていく。
更衣室で、真新しい白衣とズボンに着替える。
シャリッとした生地の感触が、
まだ体になじまない。
袖口からのぞく手首も、いつもより
頼りなく見えた。
帽子とマスクをつけて鏡の前に立つと、
そこに映っているのは「浅倉椎菜」なんだけど、
どこか知らない人みたいでもあった。
「浅倉さんね? 今日からよろしくね。」
声をかけてくれたのは、給食室チーフの曽野 雪。
目元がやわらかくて、でも背筋はまっすぐ
伸びている。
“この人が船長なんだ”と、
一瞬で分かる雰囲気だった。
「墨田区両国小中一貫校のチーフ、曽野です。
困ったらなんでも言って。」
「よ、よろしくお願いします。」
ムードメーカーの社員・三浦さんは、
仕込み台の前で
ひとりごとのように鼻歌まじりで
野菜を切っている。
衛生と帳票に強い斎藤さんは、
チェックリストを片手に、
静かに各所を確認していた。
洗浄ラインを担当する唯一の男性パート、
西さんは、
「指はあるか? 数えとけよー」と
声をかけながらラックを動かしている。
ちょっとホラー。
最初の三日間は、朝から晩まで、
ほとんど清掃だけだった。
排水溝のふた、ドアノブ、温蔵庫の取っ手、
回転釜の裏。
モップでこすりながら、
「こんなところまで?」という場所ばかりだ。
(まじ床までこんなに洗うの?)
「ここが基本だからね。」
曽野チーフがそう言って、汚れが残り
やすい場所を一つずつ教えてくれる。
チェックリストにペンで印をつけるたびに、
「現場」の一部に、
自分の名前が刻まれていくような気がした。
そして、迎えた給食初日。
午前の下処理室。
プラスチックの大きなカゴから、玉ねぎが
あふれそうに山になって積まれている。
皮の茶色と、身の白さがまだら模様になって、
軽い威圧感を放っていた。
まな板が二枚。片方にわたし。もう片方には、
同い年だけど一年先輩の縣 陸。
短く刈り込んだ髪に、少し日に焼けた首。
元・野球部と聞いて、なんとなく納得した。
「芯そのままだと真ん中だけ火が通りにくくてさ。
変なシャキシャキ残ると辛く感じるんだよね。」
陸は、玉ねぎをくるっと回して、
迷いのない手つきで包丁を入れていく。
シャッ、シャッ、と一定のリズムで
まな板に当たる音が、妙に心地いい。
(速っ……。)
わたしも、研修で習った通りに動く。
耐切創手袋をしてから、頭とおしりを落とし、
皮をむき、芯をくり抜く。
手順は頭に入っているのに、実際に動かすと、
ぎこちなさがあちこちで顔を出した。
玉ねぎの刺激で、目がじんわりとしみる。
涙をこらえながら作業を続けると、余計に視界が
ぼやけて、ますます遅くなる。
(これ、ほんとに終わるのかな……。)
「縣さん、切り物入って〜。」
陸は途中で呼ばれて、中の作業の応援に向かった。
「浅倉さん、頼んだ。」
下処理室には、わたしと玉ねぎの
山だけが残される。
(……「頼んだ」じゃないよ。山、
まだ半分あるんですけど。)
心の中でだけ、ちょっと毒づきながら、
ひたすら芯を抜き続ける。
手袋の中は汗でむれて、指先の感覚が
少し鈍くなってきた。
ようやく最後の一個をカゴに戻したころには、
時間の感覚がすっかりおかしくなっていた。
「……終わった。」
息を吐くと同時に、肩から力が抜けそうになる。
そこへ、エプロンを直しながら陸が戻ってきた。
「椎菜、まだやってんの?」
冗談っぽい口調だったけれど、横目でシンクを
のぞいた視線に、
ほんの少しだけ驚きが混じっていた。
「……やってます。」
(分かってるよ、遅いのは。でも、これ子どもが
食べるやつなんだから、雑にはできないでしょ。)
心の声が、そのまま語尾ににじみ
出てしまったのか、
返事が少し尖って聞こえた。
「ごめーん、また中、呼ばれちゃってさ。
残りありがと。」
縣さんは軽く手を振り、「じゃ、あとお願い!」と
だけ言って、
給食室の方へ走っていった。
なんとか全て終えたわたしは、手洗い場へ向かう。
石けんで手を洗い、爪ブラシでこすり、
もう一度石けんで洗って、流水で流す。
ペーパータオルで拭いたあと、アルコールを
たっぷりすり込む。
エプロンも新しいものに交換して、深呼吸。
(よし。遅れたけど、やるべきところはちゃんと
やった。
ここで手を抜いたら意味ないし。)
自分にそう言い聞かせて、メインの給食室へ
駆け込んだ。
「おい、新人。」
背中から飛んできた声に、思わず立ち止まる。
振り向くと、腕を腰に当てて立つベテラン
調理員・柳生さん。
他社から来たばかりで、自分なりの
ローカルルールが多く、
掃除の日から、ちょっと扱いづらさを
感じていた相手だ。
「はい!」
「これ、やっとけ。」
顎でしゃくった先には、回転釜。
中では、バターと小麦粉を混ぜたばかりの
ペーストが、
まだ重たそうに底でうごめいている。
「え、なにを……?」
「見りゃ分かんだろ。混ぜとけ。」
「えっと……はい。」
ステンレスの大きなカナベラを握ると、
手袋越しでもずっしりと重さが伝わってきた。
(焦がさないように、でも粉っぽさは
ちゃんと飛ばさなきゃ。
研修でも、“生っぽいルウはNG”って言ってたし。
さっき遅れた分、
ここでモタモタしていられない。)
そう思って、火加減をほんの少し強める。
底をこするように、ぐるぐるとカナベラを動かす。
バターと小麦粉の匂いが、
だんだん香ばしく変わっていく。
白っぽかったペーストの色が、
ゆっくりときつね色に近づいていく。
(……なんか、カレーの前の匂いっぽくない?)
胸の奥に小さな不安が生まれた瞬間――。
「おい、何やってんだ!」
柳生さんが戻ってきて、釜の中をのぞき込む。
「柳生さん、どうしたの?」
落ち着いた声とともに、様子がおかしいと
曽野チーフが近づいてくる。
柳生さんが少し身を引き、曽野チーフが
釜の中をのぞき込んだ。
ルウの色は、さっきよりもはっきりとした
ブラウンに変わっていた。
「浅倉さん。この色、何用のルウか分かる?」
「……ブラウンルウです。」
自分の声が、耳の中で少し遅れて返ってくる。
「そう。味そのものは悪くないと思うけど、
今日の“エビクリームライス”とは違うね。」
曽野チーフは、視線を柳生さんに移した。
「柳生さん。野菜の下処理から戻ったばかりの
新人に、火加減も時間も伝えずに“混ぜとけ”は、
ちょっと乱暴よ。」
「……悪ぃよ。急いでたからよ。」
「急いでるときほど、説明は丁寧に。
それがベテランの仕事。」
声は静かなのに、言葉はまっすぐだった。
「まず、南沢先生を呼ぼう。」
内線で呼ばれた学校側の栄養士・南沢和江先生が、
白衣姿で釜の前にやってくる。
優しそうな雰囲気なのに、目は真剣だ。
「状況を説明してもらえますか。」
曽野チーフが、落ち着いた口調で経緯を話す。
新人のわたしがルウをブラウンまで
炒めてしまったこと。
柳生さんの指示がざっくりだったこと。
そして、自分の管理不足として謝罪したいこと。
「先生、申し訳ございません。私の管理不足です。
やりなおしをさせてください。
費用は会社で負担させていただきます。」
わたしも前に出て、頭を下げた。
床が近く見える。心臓の音が、
帽子の中まで響いている気がした。
南沢先生は、しばらく釜の中のルウを見つめ
それから口を開く。
「このルウ自体は、衛生的には問題
なさそうですね。」
一瞬だけ、胸の奥の固まりがゆるむ。
「でも、今日は“エビクリームライス”です。
色も含めて“メニューそのもの”ですから、
このルウは使えません。」
はっきりした口調だった。
「時間的に、やり直しは可能ですか?」
「ギリギリですが、全員で協力すればいけます。」
朽木サブチーフが、ほとんど食い気味に答える。
「じゃあ、お願いします。こちらとしては、
今日予定していた献立を、
可能な限り予定どおり出したいです。」
南沢先生は、わたしの方をまっすぐ見た。
「失敗そのものより、“どうリカバリしたか”を
記録してください。
原因と対策を、あとで一緒に確認しましょう。」
「……はい。」
「子どもたちには、きちんとした給食を
出してあげましょう。」
それだけ言って、南沢先生は職員室へ
戻っていった。
曽野チーフが、小さく息をついてから、
わたしを見る。
「浅倉さん。」
「……はい。」
「泣くのはあと。今はリカバリね。」
その一言で、喉までこみ上げていた涙が、
ぎりぎりのところで踏みとどまった。
「朽木サブチーフ、ルウお願い!浅倉さん
今日は牛乳セット手伝ってきて。」
「はい!」
朽木サブチーフが新しい釜を用意し、
三浦さんたちも一斉に動き出す。
さっきのブラウンルウは、別の容器に移され、
「社内報告書」として記録に
残されることになった。
わたしは牛乳セットのラインに入り、
ひたすらパックをケースに並べる。
冷たい紙パックの感触が、少しだけ
火照った手のひらの熱を奪っていく。
なんとか作り直しが間に合い、
配缶・配膳ラインは、
予定より少し遅れただけで動き出した。
検食用の見本食のトレーには、
白いエビクリームライス。
さっきまで真っ白だったご飯が、
牛乳とバターと小麦粉で、
うっすらミルク色の海になっている。
その中から、ピンク色のエビが
小さな島みたいに顔を出していた。
(……ちゃんと、エビクリームライスの顔に
なってくれてる。)
湯気に顔を近づけると、
バターの香りの向こうから、
玉ねぎをじっくり炒めた
甘さがふわっと追いかけてくる。
さっきまで胃のあたりを重く押していたなに
かが、少しだけほどけた。
学校のチャイムが鳴り、しばらくして、
廊下の向こうから、「いただきます」の声が
波のように押し寄せてきた。
(……間に合った。)
膝からすとんと力が抜けそうになるのを、
なんとかこらえる。
「みんな初日ありがとう、休憩するよー。」
曽野チーフの声が、給食室全体に届いた。
休憩室に戻ると、給食室用の食缶たちが、
キャラクターのシートを敷いた床に並んでいる。
(誰かのお子さんが使ったレジャーシート
なのかな。)
「疲れたでしょ。」
パートのお姉さんが声をかけてくれる。
確か山本さんだ。とってもきれいな人。
その声に、さっきまで張りつめていた
疲れが少しやわらいだ。
「はい。」
「今、みんなの分盛るね。」
「あっ、ありがとうございます。」
本当は「手伝います」って、
すぐ言えたらいいのに。
足がすくんで、一歩が出ない。
立っている場所だけが、じんわり熱くなる。
(私どうしよう……邪魔になってないかな。)
その場に崩れるように、ちょこんと座ってしまう。
山本さんは、少しにこっとして、
手際よく盛り付けを終わらせてくれた。
「久しぶりの給食、楽しみよね。」
「はい。」
慌てて、わたしも牛乳を配り始める。
パックを一本ずつ運ぶだけの仕事なのに、
それでも「動けた」ことに、
ほんの少しだけ胸をなで下ろした。
(……いつか、最初から「盛り付けやります」って
言えるようになりたいな。)
みんなも戻り、給食の時間だ。
曽野チーフが落ち着いた口調で、
「今日もありがとう、いただきます。」
と声をかけた。わたしも小さな声で
「いただきます」とつぶやいた。
スプーンで、端っこをひと口ぶんだけすくう。
重たすぎない、とろみ。スプーンの上で、
ご飯の粒がちゃんと立っている。
(いきます。今日一日の答え合わせ。)
口に運ぶと、まず牛乳のやわらかい
甘さが広がって、そのあとに、
エビのうまみと玉ねぎの優しい甘みが、
じわっと底からせり上がってくる。
バターのコクが、食材全部を一つに、
毛布をかけるようにまとめてくれている。
(うん……ちゃんと、クリームだ。
さっきのブラウンルウじゃなくて、
“今日出したかった方”の味だ。)
エビは、下茹での効果で臭みもなく、
歯を入れるとぷりっと軽く跳ねる。
(そんなに逃げないで。)
ぷるっとしているが、固くも生っぽくもない、
その真ん中のところ。
(これなら、低学年でも食べやすいな。
ご飯はクリームソースに合わせて
少し硬めに仕上がっていて、
バランスが秀逸。ちゃんと分かる。)
一口飲み込むたびに、
「大丈夫」「間に合ったよ」と
誰かに背中をさすられているみたいな
気持ちになる。
(これは……今日の“やり直し”の味だな。)
廊下の向こうから、「ごちそうさまでした」の
声が聞こえてきた。
(失敗したのに、こんなに味わっている場合?
わたし……。さあ、午後はしっかりしないと。)
午後の片付けと帳票記入が終わるころには、
外はすっかり夕方だった。
更衣室で白衣を脱ぎ、スーツに着替える。
鏡に映る自分の顔は、朝より少しだけやせた――
いや、大人になって見えた。
「浅倉さん。」
振り向くと、曽野チーフが小さな
袋を持って立っていた。
「今日は、本当にお疲れさま。」
袋の中をのぞくと、給食の白衣を
着たうさ耳のぬいぐるみ。
「かわ……。」
思わず、声がもれた。
「会社の試作サンプルみたいなものなんだけどね。」
曽野チーフは、少しだけ笑ってから続ける。
「あなたに預けておくわ。うちに置いとくより、
あなたのカバンの中の方が、
こいつも楽しそうでしょ。」
「でも、わたし、今日……失敗したのに。」
「失敗した“から”よ。」
即答だった。
「ちゃんと謝って、ちゃんと最後までやり
切ってたの、見てたから。大丈夫。」
その「大丈夫」の二文字が、
今日一日のどの言葉よりも、深く胸に染みた。
「……ありがとうございます。」
ぬいぐるみをそっと受け取り、カバンにしまう。
ふわっとした手触りだけが、掌に残った。
第1話のメニューを「エビクリームライス」に
したのには、少しだけ理由があります。
クリーム系の大量調理は、やわらかくて優しい味なのに、作るのは本当に難しい料理です。
火加減や混ぜるタイミングが少しずれるだけで、
とたんに焦げついてしまいます。
給食の世界では、新人の方が最初にぶつかりやすい“壁”のひとつでもあります。
筆者の実体験も交じっています。
椎菜が初日に失敗してしまったのは、
決して特別なことではありません。
むしろ多くの新人さんが通る道で、
現場ではよくある光景です。
あの日の椎菜の涙は、彼女がまじめに
向き合った証だったと思っています。
そして準備の大切さを感じてもらためでもあります。
エビクリームライスは、子どもたちにとっては
“ちょっと特別なお楽しみ”みたいなメニューです。
その一方、大人たちには「絶対に間に合わせたい」と
いうプレッシャーがかかります。
その緊張感こそ、学校給食の現場に流れる
“本当の空気”なのだと思います。
そして、もうひとつ理由があります。
この物語には“ちょっとだけSF”の気配が流れています。
白い湯気の立つクリームルウは、
椎菜の心の奥にある記憶 ――
お父さんが残した研究の“白い光”と
静かにつながっていきます。
ただの給食の一皿が、
その人の人生をそっと動かすことがあります。
椎菜にとって、その役目を果たしたのが
エビクリームライスでした。
読んでくださった方の中に、
「昔ホワイトソース焦がしたな」
「大量調理って大変なんだよね」
そんなふうに思い出してくださる方がいたら、
この一皿を選んだ意味はきっと
届いているのだと思います。




