第8話 半信半疑
九月に入って、大型の台風が接近しているというニュースが繰り返し流れるようになった。
レジ横のテレビで天気予報を眺めながら、俺は妙な既視感に襲われていた。
――この年、台風で近所がどうにかなった気がする。
記憶はひどく曖昧だった。どこの地域で、どれくらいの被害だったのか、具体的なことは何一つ思い出せない。ただ、断片的な不安だけが胸に残っていた。
「丸山さん、今年の台風、ちょっと本気で備えたほうがいいかもしれないですよ」
「お前、天気予報オタクかよ」
丸山さんは笑いながら受け流した。無理もない。俺自身、根拠らしい根拠を説明できないのだから。
それでも、園芸コーナーの陳列を一部片付け、駐車場の排水溝まわりを軽く掃除しておいた。店長には「念のためです」とだけ伝えた。
———
台風が上陸したのは、三連休の初日だった。
夜、実家の窓を雨と風が叩き続けた。停電にはならなかったが、テレビは大雨と河川の増水を伝え続けていた。
朝になって店に出ると、駐車場の隅が浅く水に浸かっていた。片付けておいた陳列棚のあたりは無事だったが、対応が遅れた別の一角では、資材が雨でだいぶ傷んでいた。
「松井くんの言った通りになったな」
店長にそう言われても、素直に喜べなかった。備えたところで、結局は全部を防げたわけじゃない。それに、そもそも自分の記憶が正しかったのかどうかすら、はっきりしないままだった。
———
休憩中、初美が心配して店に顔を出した。
「大丈夫でしたか、お店」
「まあ、一部やられたけど、大したことはない」
「耕一さん、なんか最近、天気に詳しくなりましたよね」
冗談めかした言い方だったが、少しだけ心臓が跳ねた。
「そんなことないよ」
「そうですか?」
初美はそれ以上追及せず、自販機で買った缶ジュースを差し出してきた。
「お疲れ様です」
「ああ、ありがとう」
受け取りながら、俺は内心で考えていた。
令和の記憶は、思っていたよりずっと頼りにならない。当たることもあれば、外れることもある。全部を覚えているわけじゃないし、覚えていても細部はあやふやだ。
ふと、あの台風のニュースを最初に聞いた時のことを思い出そうとした。何県で、どんな被害が出たのか。ニュース映像の記憶をたどろうとして——
「……あれ?」
声に出してしまうほど、何も出てこなかった。
最初にこの体に戻ってきた時は、もう少し、はっきりと覚えていた気がする。あの人の名前も、あの出来事の日付も。今はもう、輪郭だけがぼんやりと残っているだけだ。
――忘れていってるのか、俺は。
考えたくない可能性が、頭の隅をよぎった。
――知ってるつもりで、実は何も知らないのかもしれない。
その不安は、これまで感じたことのない種類のものだった。
———
「そういえば、学校で進路調査票、配られたんです」
初美がふと、話題を変えた。
「もう、そんな時期か」
「はい。まだ全然、何も決めてないんですけど」
缶ジュースのプルタブをいじりながら、初美は少し困ったような顔をした。
「耕一さんは、何て書きます? 自分だったら」
「俺だったら」と聞かれて、すぐには答えが出なかった。
「……考えとくよ」
「はい」
初美はそれだけ言って、店の奥へ戻る俺を見送った。
台風は過ぎ去ったが、頭の中には、まだ晴れない曇り空が残っていた。




