第7話 二度目の春
桜がまた咲いた。
仕事に向かう道すがら、街路樹の桜がちょうど満開だった。足を止めて見上げていると、隣で自転車を押していた初美も、釣られるように空を仰いだ。
――去年の今頃は、こいつと出会ったんだよな。
そんなことを、なんとなく考えていた。
「去年のこと、覚えてますよ」
初美が、笑いながら言った。
「そりゃ覚えてるだろ」
当たり前のことを言われた気がして、そう返した。
「私は、忘れたくないですから」
その一言に、俺は思わず初美の横顔を見た。いつもと変わらない笑顔だったが、その言葉には、何か違う重みがあった。
――この一年で、初美は何か変わったんだろうか。
うまく言葉にできないまま、俺はその違和感を胸にしまった。
———
この春から、俺はホームセンターに正式に入社した。去年の暮れに決まっていた話が、ようやく形になった格好だった。制服も名札も変わらないが、肩書きが変わっただけで、店に立つ気持ちが少し違って感じられた。
気づけば、一年が経っていた。
桜がまた咲いて、また散った。去年、初美と並んで座ったあの公園のベンチも、今年は違う顔ぶれで賑わっている。大輔とはたまに店で顔を合わせる程度の関係に落ち着き、幸子は月に一度くらいの頻度で、正月飾りでもないのに何かしらの買い物にやってくるようになっていた。
初美は、この春から高校三年になった。進路の話をぽつぽつとするようになったが、まだ本人の中でも定まっていないらしい。
変わらないのは、俺自身のことだった。だが、あの日から一年経っても、初美に対する自分の感情に、まだちゃんとした名前をつけられていなかった。
———
休みの日の昼、居間で母とお茶を飲んでいた。テレビでは特に興味のない情報番組が流れている。
「耕ちゃん、最近、初美ちゃんとよく会ってるわね」
「まあ、近所だし」
「近所の子と、そんなに会う?」
図星を指されて、返事に詰まった。
「あんた、初美ちゃんのこと、好きなんじゃないの」
直球だった。飲みかけのお茶で、むせそうになる。
「な、何言ってんだよ」
「隠さなくてもいいのに。分かりやすいんだから、あんたは」
母は面白そうに笑っている。こういう時の勘の良さは、昔から変わらない。
「別に、そういうんじゃ……」
「そういうんじゃ、何?」
言葉に詰まった。否定しようとして、うまく否定しきれない自分がいた。
「まあ、いいわ。急かさないから、ゆっくりね」
母はそれだけ言って、湯呑みを片付けに立った。答えを聞き出す気は、最初からなかったのかもしれない。
———
「そういえば、来月から消費税、上がるんだっけ」
母が、テレビの経済ニュースを見ながら、ふと呟いた。
まだだ。増税は二〇一九年の話だ。二年以上先の話を、うっかり訂正しそうになって、慌てて口を噤んだ。
「あー……いや、どうだったかな」
「あんた、そういうの興味ないもんね」
誤魔化しきれたらしい。だが、心臓には悪い一瞬だった。
こういう小さなヒヤリとする瞬間は、この一年で何度もあった。知っているはずのことを、まだ起きていない顔で聞かなければならない。慣れたつもりでいたが、油断すると口が滑りそうになる。
———
夕方、一人で散歩がてら、去年の公園に寄った。
ベンチに座って、一年前のことを思い出す。事故に遭って、目が覚めたらここにいた。何も分からないまま、初美と二人でこれからのことを話し合った。あの日から、ちょうど一年だ。
桜はもうほとんど散っていた。花びらが数枚、風に流されてベンチの端に溜まっている。
初美への感情に、まだ名前はつけられない。だが、母に指摘されて動揺した時点で、答えはもう出ているのかもしれない、とも思う。
急ぐ必要はない。母の言う通りだ。
俺は立ち上がり、散った花びらを一つ払って、家路についた。




