第3話 はぐらかし
十一月に入って、朝の冷え込みが急に強くなった。
仕事終わり、レジ締めをしていると、店長に事務所へ呼ばれた。
「松井くん、ちょっといいかな」
先月、それとなく相談していた話だ。「そろそろ長く働けそうか、考えといて」と言われていた件だった。
「例の件、上とも話がついたよ。来年から正社員で頼む」
正式に決まったと聞くと、思っていた以上にほっとした。
「ありがとうございます」
「これから年末に向けて、灯油や正月飾りで忙しくなる。シフト、少し増やせるか」
断る理由はなかった。頷くと、店長は満足そうに事務所を出ていった。
正社員か。令和で社畜になった自分を思うと、複雑な気分だった。だが今回は、誰かに強制されたわけじゃない。自分で望んで、自分で決めた、という一点だけが、前とは違う気がした。
———
数日後、仕事終わりに裏口から出ると、大輔が一人で立っていた。
「お疲れ様です」
「よう。今日は買い物じゃないのか」
大輔は少し間を置いてから、まっすぐにこちらを見た。
「耕一さんと初美さん、付き合ってるんですか」
直球だった。友人もいない。一対一で聞くために、待っていたらしい。
「いや、付き合ってない」
嘘ではなかった。ただ、言った瞬間、自分の声が思ったより硬いことに気づいた。
「じゃあ、俺が本気で初美さんに告白しても、いいってことですよね」
大輔の目は、からかっているわけではなかった。むしろ真剣すぎるくらいだった。
答えようとして、頭の中に浮かんだのは、公園でのあの一瞬だった。初美が膝の上で指を強く握った、あの表情。理由は分からない。分からないが、あれを見た後で「好きにしろ」とは言えなかった。
「……いや」
自分でも、次に何と続けるつもりだったのか分からなかった。
「悪いけど、しばらくは、俺が近くにいる」
言った後で、しまった、と思った。彼氏だと言ったわけじゃない。だが、そう聞こえてもおかしくない言い方だった。
大輔は、少しの間黙っていた。それから、小さく頷いた。
「……分かりました」
それだけ言って、大輔は自転車に跨り、去っていった。
———
自転車を漕ぎながら、俺は自分の言葉を思い返していた。
――しばらくは、俺が近くにいる。
我ながら、はっきりしない言い方だ。彼氏だと言ったわけでもない。ただの世話焼きの先輩、くらいの意味にも取れる。
もっとはっきり言えばよかったんじゃないか。
そんな考えが頭をよぎって、俺は小さく舌打ちをした。何をはっきりさせたかったのか、自分でもよく分からない。
柄にもない。
———
数日後、初美が仕事帰りに店に寄った。レジ袋を提げて、俺の休憩時間に合わせて待っていたらしい。
自販機の前のベンチに並んで座る。
「大輔くんと、何かありました?」
単刀直入に聞かれて、言葉に詰まった。
「なんで分かるんだ」
「学校で、様子が違ったので」
仕方なく、店の裏口でのやり取りをかいつまんで話した。「本気で告白してもいいか」と聞かれたこと、自分がうまく答えられなかったこと。「俺が近くにいる」と言ってしまったことは、なんとなく省いた。
初美はしばらく黙って聞いていた。
「大輔のこと、どう思ってるんだ」
思い切って聞いてみた。
「……普通に、いい人だと思いますよ」
その答え方は、質問への答えになっていなかった。
「それだけか」
「それだけです」
初美は微笑んだが、目は笑っていなかった。それ以上、突っ込んで聞くことはできなかった。
「じゃあ、また」
初美は立ち上がり、レジ袋を提げて店を出ていった。
———
残った休憩時間、俺はぼんやりと自販機のコーヒーを飲んでいた。
大輔の質問にも、初美の言葉にも、はっきりした答えは出せなかった。何かを察してはいる。だが、その正体が何なのか、俺自身にもまだ分からない。
ただ、胸の奥に、説明のつかない焦りだけが残っていた。




