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夏と、十年前の春  作者: 山田村


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第24話 選んだ道



 年が明けた。


 初詣には、去年までとは少し違う顔ぶれで出かけた。母と、初美と、俺の三人。境内の混雑も、寒さも、いつもと変わらなかったが、去年より一つ多い人数で並ぶ賽銭の列が、なんとなく気持ちを落ち着かせた。


「今年もよろしくお願いします」


「はい、よろしくお願いします」


 初美が母に向かって、丁寧に頭を下げる。母は嬉しそうに笑って、それだけ答えた。


———


 参道を歩いていると、初美がふと言った。


「お姉ちゃんに、少しだけ話しました」


「全部か?」


「全部じゃないですけど……大輔くんのこと、うまくいかなかった時期があったって、それくらいは」


「そうか」


「お姉ちゃん、何も聞かずに、ただ『そう』とだけ言ってくれました」


 それだけで十分だったのだろう、と思った。誰かに知っていてもらう、というだけで、抱える重さは変わる。全部を話す必要はない。


———


 一月の半ば、居間で母を交えて、結婚式の話になった。


「派手にしなくていいので」


「あら、初美ちゃんがいいなら、それでいいけど」


「お金も、そんなにかけたくないですし」


「まあ、そういうところも、耕ちゃんに似てきたわね」


 軽口を叩きながら、話は具体的な日取りへと進んでいった。


 その途中、母が何気なく聞いた。


「子供は、まだ考えてないの?」


「……それは、おいおい」


 俺がそう答えると、母はそれ以上突っ込んでこなかった。隣で、初美が少しだけ肩の力を抜いたのが分かった。


 急かさない。それだけで、十分だった。


———


 二月のある日、買い物帰りに、お腹の大きな女性とすれ違った。


 思わず、隣の初美の横顔を見た。


 初美は、ただ静かに、微笑んでいた。表情が固まることも、時間が止まったようになることもなかった。


「大丈夫か」


「はい。……前より、ちゃんと見られるようになった気がします」


 全部が消えたわけではないのだろう。それでも、確かに何かが変わっていた。


———


 その夜、一人で布団に入りながら、ふと、あの日のことを考えた。


 二〇一六年四月二十九日。コンビニ帰りに車に撥ねられて、目が覚めたら十年前だった、あの朝のこと。


 あれから、七年近くが経つ。


 令和での記憶は、もうほとんど残っていない。元妻の顔も、離婚の経緯も、勤めていた会社の名前さえ、輪郭がぼやけてきている。以前なら、それを恐ろしいと思っていた。今は、不思議とそうは思わない。


 ――令和に、戻りたいか。


 自分に、そう問いかけてみた。


 答えは、驚くほどはっきりしていた。


 戻りたくない。


 あの世界に戻ったところで、待っているのは、離婚した後の、何もかも失った自分だ。父はもういない。初美もいない。この十年前の世界で積み重ねてきたものは、何一つ持って帰れない。


 それに――たとえ戻れる方法があったとしても、俺はもう、戻ろうとは思わないだろう。


 この場所に、俺は根を張り始めている。


———


 翌朝、いつものように初美と朝の道を歩きながら、昨夜考えたことを、そのまま口にした。


「もし、令和に戻れる方法があったとしても」


「はい」


「俺は、戻らないと思う」


 初美は、少し驚いたような顔をしたあと、ゆっくりと頷いた。


「あたしも、たぶん、同じです」


「たぶん?」


「はい。……いえ、たぶんじゃないです。戻りません」


 初美は、はっきりとそう言い切った。


 二人で選んだ、この十年前の世界。令和という場所は、もう戻る場所ではなく、ただ、かつていた場所として、少しずつ記憶の彼方に退いていくのだろう。


 それでいい、と思った。


 初美の秘密も、父の死も、記憶の喪失も――何一つ、なかったことにはならない。それでも、それら全部を抱えたまま、俺たちはこの場所で、これからも生きていく。


 選んだ道を、まっすぐ歩いていくだけだった。


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