第23話 氷解
十二月に入ってすぐ、初美の様子は、傍目にはいつも通りに見えた。だが、どこか張り詰めているのが分かった。
顔合わせの夜のことは、あれ以来、話題にしていない。無理に聞き出すつもりもなかった。ただ、いつもより少しだけ口数の少ない初美を、それとなく見ていた。
———
休みの日の夕方、初美からメッセージが届いた。
『今日、いつもの公園、行けますか』
短い文面だったが、いつもとは違う空気を感じた。
『行く』
それだけ返して、上着を羽織った。
———
公園に着くと、初美はすでにベンチに座っていた。吐いた息が、白く曇ってすぐに消える。
「待たせたか」
「いえ、そんなには」
隣に腰を下ろす。しばらく、どちらも何も言わなかった。
「話したいことが、あるんです」
「ああ」
「ずっと、言えなかったことです」
初美は膝の上で両手を組んでいた。指先が、かすかに震えているように見えた。
「聞くよ」
「……はい」
初美は、しばらく夜空を見上げていた。それから、ゆっくりと話し始めた。
———
「令和の――向こうの世界の話です。私たちが十年前に戻る前の」
「ああ」
「私、大輔くんと、ちゃんと付き合ってたんです。高校を卒業してから、しばらく」
知らなかった話だった。今のこの十年前の世界では、初美は自分からその関係を避けていた。だが、向こうの世界では違ったらしい。
「二十歳になる少し前くらいだったと思います。もう、はっきりとは、覚えてないんですけど」
「……ああ」
「妊娠したんです」
その一言で、周りの音が、一瞬だけ遠くなった気がした。
「大輔くんとは、その頃にはもう、あんまり気持ちが続いてなかったと思います。私も、彼も。なんとなく、続いてただけの関係でした」
「……そうか」
「相談したら、困った顔されました。『まだ早いと思う』って、それだけ」
初美の声は、思っていたより落ち着いていた。何度も自分の中で繰り返してきた言葉のようだった。
「一人で決めました。産むのは、無理だと思って」
「……」
「病院に一人で行って、それで、終わりです」
「誰にも、言わなかったのか」
「言えなかったです。お姉ちゃんにも、お母さんにも」
初美は、笑ったような、泣きそうな、どちらともつかない顔をした。
「怖くて、悲しくて。でも同時に、ほっとしてる自分もいて。そのことが、一番、誰にも言えませんでした」
———
「令和に戻ったら、また同じことになるんじゃないかって、ずっと怖かったんです」
「それで、大輔を避けたのか」
「はい。あの時は、そこまではっきり考えてたわけじゃないですけど。……とにかく、同じ道を歩きたくないって、体が先に動いた感じでした」
「妊婦さんを見た時、あの顔をしてたのも」
「はい」
「子供の話になると変な感じになるって言ってたのも」
「はい。全部、そのことです」
初美は、ようやくまっすぐにこちらを見た。
「気持ち悪いですよね、こんな話」
「そんなこと、思うわけないだろ」
「……そうですか」
「思うわけない」
もう一度、繰り返した。自分でも、思っていたよりはっきりした声が出た。
———
「令和の記憶、薄れていってるんです。前より、ずっと」
「知ってる」
「でも、これだけは、なぜか、はっきり覚えてるんです。忘れたいのに、忘れられない」
「……そうか」
「忘れる前に、誰かに聞いてほしかったのかもしれません」
その言葉に、俺はしばらく何も言えなかった。
令和での自分を思い返す。離婚して、何もかも失って、それでも誰にも本当のことを話せないまま、この町に戻ってきた。初美の抱えていた重さとは種類が違う。それでも、「誰にも言えないまま抱え続ける」という感覚だけは、痛いほど分かる気がした。
「話してくれて、よかった」
「……本当に?」
「ああ」
「軽蔑、しないんですか」
「するわけないだろ、そんなこと」
初美の目に、涙が滲んだ。堪えていたものが、ようやく緩んだような表情だった。
———
「これから先、子供のこと、どうなるか、正直まだ分からないです」
「今、決めなくていい」
「……いいんですか」
「ああ。焦ることじゃない」
父を失った時のことを思い出していた。知っていても、変えられないことがある。だが同時に、知らなくても、一緒にいられることもあるはずだった。
「一つだけ、言っておく」
「はい」
「お前が抱えてたものを、俺は今日、初めて知った。でも、それを聞いたからって、お前への気持ちは何一つ変わらない」
「……」
「ずるいくらい、まっすぐな言い方ですね」
「柄にもないことを言ってる自覚はある」
「知ってます。プロポーズの時も、そうでしたし」
思わず笑ってしまった。
———
「寒くないか」
「大丈夫です」
「そろそろ帰るか」
「はい」
立ち上がって、二人並んで歩き出す。指先が触れて、どちらからともなく手を繋いだ。
十年前に戻ってから、七年以上が経つ。初美の中にある、一番深い場所にあった秘密に、ようやく触れることができた。
全てが晴れたわけではない。これから先、子供のことも、令和の記憶のことも、答えの出ていない問いはまだ多く残っている。
それでも、隣を歩く、繋いだ手の温もりだけは、今、確かなものとしてそこにあった。




