第22話 翳り
婚約から半月ほど経った十一月の終わり、正式な顔合わせをすることになった。
佐藤家の居間に通されると、初美の母――俺にとっては初対面に近い相手だった――が、お茶を出しながら何度も頭を下げた。
「まさか、この子が先に決まるなんてねえ」
「お母さん」
初美が小さく制するように言ったが、母親は気にする様子もなく続けた。
「幸子より先だなんて、思ってもみなかったわ」
「私は別にいいんですけど」
幸子が苦笑しながら口を挟む。場の空気は、終始和やかだった。
———
食事が進み、酒も少し入った頃、初美の母がふと、こんなことを言った。
「早く、孫の顔、見たいわねえ」
何気ない一言だった。祝いの席では、誰もが一度は口にするような言葉だと思う。
だが、その瞬間、初美の表情が、一瞬だけ止まった。
笑顔のまま、時間だけが止まったような――以前にも見たことのある顔だった。道ですれ違った妊婦を見た時と、同じ表情だった。
「もう、気が早いですよ」
初美はすぐにいつもの調子に戻って、笑ってそう答えた。母親も幸子も、特に気にする様子はなかった。
だが、俺だけは、はっきりとその一瞬を見ていた。
———
帰り道、二人並んで歩きながら、それとなく聞いてみた。
「さっき、母さんに孫の話されて、ちょっと固まってたよな」
「……そうでしたか?」
「ああ」
初美は、少し困ったような顔をした。
「自分でも、よく分からないんです」
「分からない?」
「子供の話になると、なんか、変な感じになるんです。嫌とか、怖いとか、そういうのとも違う気がするんですけど……うまく言えなくて」
その言い方には、隠しているというより、本人自身も掴みきれていない何かがある、という感触があった。
「ずっと、そうなのか」
「……たぶん。前から」
それ以上は、初美も言葉を続けなかった。俺も、無理に聞き出そうとは思わなかった。ただ、その「変な感じ」の正体が何なのか、初めて強く気になった。
———
数日後、店に来た幸子と、少し立ち話をした。
「顔合わせ、ありがとうございました」
「こちらこそ。母、はしゃいじゃってごめんね」
軽い雑談のあと、ふと思い切って聞いてみた。
「初美、昔から、子供の話になると、様子が変わったりしましたか」
幸子は少し驚いたような顔をしたあと、考え込むように言った。
「……そういえば、そうかも。妊娠してる知り合いがいると、露骨に避けたりね。理由は、あたしも聞いたことないけど」
「そうですか」
「何か、心当たりでもあるの」
「いえ。ちょっと、気になっただけです」
誤魔化すように、そう答えた。
幸子も深追いはせず、それ以上は聞いてこなかった。だが、その短いやり取りだけで、確信に近いものが胸の中に生まれていた。
初美の中にある「何か」は、令和と繋がっている。そして、それは決して小さなものではない。
———
その夜、一人で天井を見上げながら考えた。
初美と出会ってから、この六年余り。ずっと感じてきた、理由の分からない重さ。妊婦を見た時の凍りついた表情。大輔との過去を語る時の、微妙な間。
答えに近づいているという実感はあった。だが同時に、それを聞いてしまえば、何かが決定的に変わるかもしれないという予感もあった。
婚約したばかりの、幸福なはずの季節に、初めて感じる種類の不安だった。




