第21話 誓い
十月に入って、朝晩がめっきり涼しくなった。
幸子との一件があってから、俺はずっと考えていた。記憶は薄れていく。関係のない噂話一つで、初美の不安は簡単に揺れる。揺れるたびに、「大丈夫だ」と口で言うことはできる。だが、言葉だけでは足りない場面が、いずれ来るような気がしていた。
――形にできるものが、何かないか。
柄にもなく、そんなことを考える自分に、少し苦笑した。
———
仕事帰り、駅前の小さな宝飾店に寄った。令和で結婚指輪を買った時とは、店の名前も雰囲気も違う。あの時は、正直、指輪選びに大して興味がなかった。妻の希望通りのものを、言われるままに選んだだけだった。
「予算は、このあたりで」
店員に伝えた金額は、決して大きくはなかった。それでも、給料からこつこつ貯めてきた分だった。初めて自分の意志で、誰かのために選ぶ指輪だった。
シンプルな、小さな石のついたリング。派手さはないが、飾りすぎていない分、初美には似合う気がした。
———
十一月の初め、いつもの公園に初美を呼び出した。
ベンチには座らず、二人で立ったまま、しばらく他愛のない話をした。夕方の風が、色づき始めた木の葉を揺らしている。
「今日、なんか改まってますね」
「そうか?」
「はい。いつもより、そわそわしてます」
見抜かれていた。隠すのが下手なのは、今に始まったことではない。
「この前、いろんなことが揺れてる気がするって言ってたよな」
「……はい」
「記憶も、人間関係も、いろいろ揺れる。俺にも、それは止められない」
初美は黙って、俺の言葉を待っていた。
「だから、動かないものを一つ作ろうと思った」
ポケットから、小さな箱を取り出した。
「……え」
「結婚してくれ」
自分でも、驚くほどまっすぐな言い方だった。ゴールデンウィークの時のような、遠回しな言葉は選ばなかった。今度は、はっきり言おうと決めていた。
———
初美は、しばらく固まったまま、箱を見つめていた。
「……ずるいです、そういうの」
「何がだ」
「心の準備、してなかったのに」
そう言いながら、目元にはうっすらと涙が滲んでいた。
「令和のことも、これからのことも、分からないことだらけですけど」
初美は箱を受け取って、蓋を開けた。中の指輪を見て、小さく息を呑む。
「これだけは、はっきりさせたいです」
「……」
「はい。よろしくお願いします」
深々と頭を下げるような言い方に、思わず笑ってしまった。
「なんだよ、それ」
「照れ隠しです」
初美も笑った。目には、まだ涙が残っていた。
———
その夜、松井家に初美を連れて行くと、母は玄関先で二人の顔を見ただけで、すべてを察したらしかった。
「……もしかして」
「ああ」
「やっと、その気になったのね」
母のカンは、今回も外れなかった。もっとも、今回ばかりは、外れようのない話ではあったが。
「おめでとう」
それだけ言うと、母は台所に立って、いつもより一品多い夕飯の支度を始めた。何も特別なことは言わなかったが、その背中は、これまで見た中で一番柔らかく見えた。
———
夜、部屋で一人になってから、俺は今日という日を振り返っていた。
令和での結婚は、なし崩しに始まり、なし崩しに終わった。今度は違う。自分の意志で選んで、自分の言葉で伝えて、決めた約束だった。
記憶は、これからも薄れていくかもしれない。だが、今日という日に、初美と交わした約束は、令和の記憶とは違う場所に刻まれる気がした。
忘れても、書いたものは残る――そう言った初美の言葉が、頭をよぎった。
今日という日は、きっと、忘れない。




