第20話 波紋
九月に入ったある日、見慣れない番号から電話がかかってきた。
「あ、耕一君? 佐藤幸子です」
初美の姉だった。声のトーンが、いつもより硬い。
「珍しいですね、電話なんて」 「ちょっと、話したいことがあって。今度、時間もらえない?」
用件は言わなかった。ただ、いつもの皮肉っぽさが鳴りを潜めていることだけは、電話越しでも分かった。
———
休みの日、駅前の喫茶店で幸子と会った。
「わざわざ悪いね」 「いえ。何かあったんですか」
幸子は少し間を置いてから、コーヒーカップに視線を落とした。
「初美のこと、最近、何か聞いてる?」
「何かって」
「うまく言えないんだけど。前より、ぼんやりしてる時間が増えた気がして。仕事は普通にこなしてるみたいなんだけど」
図星だった。令和の記憶が薄れていく不安。初美自身の口からしか語られていないその話を、姉が知るはずはない。
「……気のせいじゃないですか」
「かもしれない。でも、あたしにはずっと、あの子が何抱えてるか分からないままで」
四話の時と、同じ声だった。妹を心配しながら、何も打ち明けてもらえない孤独。あれから何年も経つのに、その構図は変わっていなかった。
「耕一君になら、話してるんじゃないの」
「……全部が全部、話してもらえてるわけじゃないですよ」
その返事に、幸子は小さく息を吐いた。
「そう。まあ、いいわ」
会話はそこで途切れ、しばらく二人とも黙ってコーヒーを飲んだ。傍から見れば、深刻な顔をした男女が、喫茶店の隅で沈黙している――そんな絵面だったと思う。
———
翌日、店に買い物に来た幸子に、レジで声をかけられた。
「あら、耕一。昨日、駅前の喫茶店にいなかった?」
「……見てたんですか」
「見たわよ、偶然。若い女の人と、随分深刻そうな顔して」
しまった、と思った。だが取り繕う理由もなかった。
「初美の姉です。妹のことで相談されて」
「へえ」
幸子は含みのある笑い方をしただけで、それ以上は突っ込んでこなかった。だが、その日の夕方、母から電話が来た。
「あんた、幸子さんと喫茶店にいたって、こうこさんが言ってたけど」
「……どっちの幸子だよ」
「あら、二人ともいたの?」
話が余計にややこしくなっていた。俺は事情を説明したが、電話越しの母は「ふうん」とだけ言って、それ以上追及してこなかった。安心していいのか、悪いのか、判断がつかなかった。
———
数日後、初美と会った時、様子がいつもと違った。
「聞きました。お姉ちゃんと、喫茶店で会ってたって」
声が硬かった。
「初美のことが心配だって、相談されただけだ」
「そう、なんですか」
言葉では納得したような返事だったが、目は納得していなかった。
「お姉ちゃん、昔から、耕一さんのこと気にしてましたもんね。子供のころ怒鳴ったのだって、本当は――」
そこまで言って、初美は自分の言葉に驚いたように口を噤んだ。
「本当は、何だ」
「……なんでもないです」
初美は視線を逸らした。最近、記憶のことでお互い不安定になっている。そこに、根拠のない不安が重なって、余計に大きくなっているような気がした。
———
「なあ」
「はい」
「幸子さんが心配してたのは、初美のことだけだ。俺のことなんか、たぶん眼中にもない」
「……分かってます、それは」
「じゃあ、何が引っかかってる」
初美は、しばらく黙っていた。それから、絞り出すように言った。
「怖いんです。最近、いろんなことが、揺れてる気がして。耕一さんとのことも、令和の記憶も、全部」
記憶のリストを書き出したあの日から――「怖いこと、確認しちゃいましたね」と乾いた声で笑った、あの目から――ずっと燻り続けていた不安が、ここに来て、別の形で噴き出したのだと分かった。
「揺れてない」
「……そうですか」
「揺れてない。お前の姉さんと会ったのは、お前のことが心配だったからだ。それ以上でも以下でもない」
初美はしばらく俯いていたが、やがて、小さく息を吐いた。
「すみません。変なこと言って」
「いや」
そのやり取りで、何かが完全に晴れたわけではなかった。だが、少なくとも、目の前にある不安の形は、はっきりした。
———
その週末、幸子から一言だけ、SMSが届いた。
『変な誤解させたなら、ごめん。妹のこと、よろしく』
短い文面だったが、そこには、これまで見せたことのない素直さがあった。
初美の秘密には、まだ誰も辿り着けていない。だが、初美を案じる人間が、俺以外にも確かにいる。そのことだけは、はっきりと分かった一件だった。




