第19話 掌の中
六年目の夏は、蒸し暑い夜から始まった。
寝苦しさに目が覚めて、天井を見上げながら、ふと元妻の顔を思い出そうとした。
――どんな顔だったっけ。
輪郭も、声も、結婚式の日のことも、思い出せなかった。腹立たしいほど鮮明だったはずの記憶が、今はもう、輪郭線だけの、誰かの顔になっていた。
嫌な汗をかいて、俺は起き上がった。
———
休憩中、初美にその話をした。
「元の奥さんの顔、思い出せなくなったんだ」
「それは……ショックですか?」
「分からない。むしろ、ちょっとほっとしてる自分もいる」
自分で言って、少し驚いた。忘れることを、これまでは怖いとしか思っていなかった。
「初美は、最近どうだ」
「あたしは……」
初美は少し言い淀んでから、続けた。
「令和の部屋の間取り、もう半分も思い出せないです。ベッドがどっちにあったかも、怪しくて」
「そうか」
「怖いっていうより、なんか、他人の部屋の話を聞いてるみたいな感覚です」
その言い方に、俺は妙な既視感を覚えた。喪失というより、剥離。自分の一部が、静かに他人のものになっていくような感覚。
———
その週末、二人で紙とペンを用意して、覚えていることを書き出してみることにした。前にも一度、同じことをやった記憶がある。
「令和の年号は、二〇二六年まで確認済み」
「うちの店の名前、令和だと変わってましたっけ」
「……思い出せない」
二時間ほど続けて、出てきたのは、驚くほど短いリストだった。十年前に戻った直後、最初の宿題として書き出したあのリストと比べると、項目の数が半分以下に減っている。
「前より、減ってますね」
「ああ」
「怖いこと、確認しちゃいましたね」
初美は乾いた声で笑った。だが、その目は笑っていなかった。
———
「なあ」
「はい」
「このまま全部忘れたら、俺たちは、何を根拠にここにいるんだろうな」
言ってから、柄にもないことを言った、と思った。
「令和の記憶がなくても、耕一さんは耕一さんですよ。あたしも、あたしです」
「そうかもしれないけど」
「令和のことを覚えてるから一緒にいるわけじゃ、ないでしょう」
初美はそう言って、書き出した紙を、丁寧に折り畳んだ。
「これは、捨てずに取っておきます。忘れても、書いたものは残るから」
その言葉に、何かが少しだけ軽くなった気がした。忘れていくものと、それでも残っていくもの。二つは、思っていたより、はっきり分けて考えられるものなのかもしれない。
———
夜、家に帰る道すがら、俺は今日のやり取りを何度も反芻していた。
令和の記憶は、確実に減っている。だが、この十年前の世界で積み重ねてきたものは、消えていない。むしろ、日に日に増えている。
どちらが自分にとっての「本当」なのか。かつては、そんなことを考える必要もなかった。今は、少しずつ、答えが入れ替わりつつあるのかもしれない。
夏の夜風が、生ぬるく頬を撫でていった。




