第17話 陽だまり
葬儀から二月ほど経った、ある朝のことだった。
台所に立つと、味噌汁の匂いがした。母が背を向けたまま、鍋をかき混ぜている。
「今日、初美ちゃん来るんでしょう」
誰にも言っていないはずだった。
「……なんでわかるんだよ」
「そりゃわかるわよ、あんたの顔見てれば」
「顔でわかるもんかよ」
「わかるのよ、これが」
母は得意げに笑って、味噌汁をよそった。昔からこういうところがある。誰にも聞いていないのに、なぜか当ててくる。父がまだ生きていた頃も、「今日は雨降るわよ」と言えば大抵当たっていたし、「あんた、給料上がったでしょ」と聞かれて驚いたことも一度や二度ではなかった。
母のカンは、いつも根拠がなかった。それでいて、なぜか外れなかった。
———
昼過ぎ、本当に初美が顔を出した。
「お邪魔します」
「あら、いらっしゃい。ちょうどよかった、西瓜切ったところなの」
居間に通された初美は、母の出す西瓜を遠慮なく頬張った。母は満足そうにその様子を眺めていたが、ふいに、こんなことを言い出した。
「二人とも、いつまで隠してるつもりなの」
西瓜を噛んでいた初美が、咳き込んだ。
「な、何のことだよ」
「とぼけても無駄よ。母親のカンなんだから」
「……いつから」
「さあ、いつだったかしらねえ。とにかく、随分前から」
母は悪びれる様子もなく、けろりとした顔でお茶を注ぎ足した。初美は真っ赤な顔で俯いたまま、何も言い返せずにいる。
「別に、責めてるわけじゃないの。ただ、水臭いなと思って」 「……悪かったよ」 「まあ、いいわ。ゆっくりおやりなさい」
拍子抜けするくらい、あっさりしたものだった。隠していたつもりが、とうに見抜かれていた。そう思うと、気まずさの中に、少しだけおかしさも混じった。
その後、何事もなかったかのように世間話が続いた。だが、俺の心臓は、しばらくうるさいままだった。
———
その週末、母と二人で父の部屋を片付けた。
作業着、釣り道具、読みかけだった文庫本。手に取るたび、母は一つ一つの由来を話してくれた。知らなかったことばかりだった。
「これ、若い頃に買ったやつよ。もったいなくて、結局一回も着なかったの」
少し色褪せたジャンパーを、母は愛おしそうに畳んだ。
「捨てるのか」
「ううん。しまっとくの。たまに出して、眺めるくらいはいいでしょう」
悲しみに沈んでいるわけではなかった。ただ、静かに、父のいた時間を確かめているような手つきだった。俺もその隣で、同じように段ボールに物を詰めていった。
———
八月の終わり、近所の夏祭りに三人で出かけた。母が「たまには」と言い出したのがきっかけだった。
境内には、屋台の匂いと、太鼓の音が満ちていた。人混みの中、遠くに幸子の姿を見かけた気がしたが、声をかけるほどの距離ではなかった。母も気づいたのか、「知らん顔しときましょ」と小さく笑った。
わたあめを両手に持った初美が、隣で笑っている。母は少し離れたところで、盆踊りの輪を眺めながら、団扇を扇いでいた。
特別なことは何もない。ただ、こうして三人で夜店を歩いているだけの時間だった。それでも、去年の今頃には想像もできなかった穏やかさが、そこにはあった。
帰り道、母がぽつりと言った。
「お父さんも、来たかったでしょうね、こういうの」
「……そうだな」
「でも、まあ。見てるかもよ、どこかで」
いつものカンなのか、それともただの慰めなのか。俺には分からなかった。ただ、素直にそう思えた。
———
夏が終わり、秋が来て、また冬が来た。
仕事にも、暮らしにも、少しずつ張りが戻ってきた。母は相変わらず、俺の些細な変化を言い当てては、したり顔で笑っていた。初美は保育園の仕事にすっかり慣れ、休みの日には相変わらず顔を合わせる関係が続いていた。隠す必要がなくなった分、以前より自然に、松井家に顔を出す回数も増えている。
二〇二二年の春、俺たちは六年目を迎えていた。
十年前に戻ってから、六年。長いようで、あっという間だった気もする。父を失った悲しみは、消えたわけではない。それでも、その悲しみを抱えたまま、日々を積み重ねていくことに、少しずつ慣れてきていた。
この先、何が起きるのか。まだ分からない。ただ、今はこの穏やかな時間を、大切にしたいと思った。




