第15話 その日
それから半年ほど、目立った進展はないまま日々が過ぎた。
父は相変わらず自転車で通勤し、新しい仕事でも変わらず車を使っていた。何度か雨の日は車にするよう勧め、渋々ながら聞いてくれることも増えていた。小さな成果、と言えなくもなかった。
二〇二〇年に入ると、世の中が急に慌ただしくなった。テレビでは連日、感染症のニュースが流れ、マスクが店頭から消えた。父の会社でも、出社の頻度が減ったり、逆に配達関係の仕事が増えたりと、落ち着かない日々が続いた。
そんな中で、事故についての緊張は、正直なところ少しずつ薄れていた。何も起きない日々が続けば、警戒心も鈍る。それが人間というものだった。
———
二〇二一年の春、桜が散り始めた頃だった。
その日は、特に変わったことのない一日だった。父はいつも通り仕事に出かけ、俺もいつも通り店で働いていた。
夕方、休憩中にスマホが鳴った。母からだった。
「もしもし――」
電話越しの母の声は、震えていた。
「お父さんが……事故に遭ったって、警察から連絡が」
頭が一瞬、真っ白になった。
「え……いつ、どこで」 「分からない、詳しいことは。今から病院に向かうから」
それだけ言うと、電話は切れた。
———
店を早退させてもらい、病院に着いたのは、それから小一時間後だった。
処置室の前の廊下で、母が一人、椅子に座っていた。顔色が悪かった。
「母さん」
声をかけると、母は俺を見て、少しだけ表情を緩めた。
「耕一……」
それ以上、言葉が続かなかった。
しばらくして、医師が出てきた。何かを説明しているようだったが、内容がうまく頭に入ってこなかった。断片的な単語だけが耳に残った。
――信号無視の車。
――横断中。
――即死に近い状態。
自転車でも、仕事の車でもなかった。ただ、いつも通り歩いて、いつもの横断歩道を渡っていただけだった。
———
俺たちが調べていたのは、自転車のことだった。車の仕事のことだった。
でも、事故が起きたのは、そのどちらでもなかった。
信号無視をしてきた、見ず知らずの誰かの車。父にはどうしようもなく、俺たちにも、防ぎようのないものだった。
半年間、何をしてきたんだろう。
その問いに、答えは出なかった。
———
その夜、俺は初美に電話をした。声が、うまく出なかった。
「もしもし……耕一さん?」 「……父さんが」
それ以上、続けられなかった。
電話の向こうで、初美が息を呑む気配がした。
「今、行きます」
それだけ言って、電話は切れた。
三十分もしないうちに、初美が家の前に来ていた。何も聞かず、ただ隣に座って、俺の背中にそっと手を置いた。
俺は、何も言えないまま、しばらくその場に座り込んでいた。
二年前から、ずっと分かっていたはずだった。それでも、いざその日が来ると、頭も体もついていかなかった。
知っていたはずの未来が、結局、そのまま訪れた。
変えられたと思っていたものは、何一つ変えられていなかった。




